寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

想い出話 「逝ってしまった姉の想い出」(20131019)

2013年10月21日 19時38分39秒 | 日記・エッセイ・コラム

 10月初めに姉が向こうの世界へ逝ってしまいました。
 今年になって多くの恩師や友人達の逝去の報に接してきました。その方達にはいろいろな意味でお世話になってきました。恩師の方の中には私の生き方に決定的な助言を下さった方もいらっしゃいます。そして友人の方々にも言い表すことが出来ないほどの親切を受けました。改めて感謝の意を申し上げます。
 さて、私の姉は87才になる十数日前に亡くなりました。姉には両親以上にお世話になりました。私が、今多くを望まなければ不自由しない生活が出来ることは姉の様々な援助のお陰と言っても過言ではありません。
  私は末っ子でした、それも直ぐ上の兄とは5才も離れていましたから兄姉喧嘩も出来ませんでした。私が物心ついた頃には兄が4人と姉と私の6人兄姉でした。太平洋戦争中から戦後の混乱期を通して姉は母とともに家族の食料確保に懸命にがんばりました。終戦の翌年春、宮城県の開拓地に行った時には、戦災を逃れ僅かに残った姉の着物を次々と米に代えていきました。年頃の娘だった姉の心中を察して幼心を痛めたものでした。村祭の時にお米に換えた着物を着た村の娘さんが歩いている姿を見て姉は涙を隠して泣いていました。

 私が高校へ進学できるかどうかを決めなければならないとき、姉は東京でM船舶KKという会社に勤めていて東京の様子を知らせてくれました。そしてこれからは学問を身に付けなければいけないと言ってくれました。当時のわが家の経済状態は、毎日の食事には困らないが学校へ行く費用まではとても都合が付かない状態でした。そんな折に姉はお金は私が送ってあげるから高等学校へ行きなさいと励ましてくれました。当時(昭和27年)の姉はどのくらいの給料をもらっていたのか知りませんが(例えば、昭和35年の大学卒の国家公務員の初任給が1万2,3千円程度だったと記憶しています)、東京でアパートを借りて生活していくのは大変だったと思いました。その中から毎月1500円を送ってくれたのです。県立高校の授業料他は月に550円でした。それに教科書や通学代(自転車、冬季には列車通学の定期乗車券代も必要でした。私は、村に一軒あった自転車屋さんで捨てた部品をもらって片腕の店主に教えてもらいながら組み立てた自転車に乗って通学しました)。しかし弁当はいつもカツオの削り節を醤油で味付けをしてご飯の全面にかけたいわゆる猫飯でした。たまに1枚を半分にきった海苔が削り節に変わり弁当の上部に1枚おきその上から醤油をかけたものになりました。級友に”また猫飯か”などと言われたのを思い出しました。おんぼろ自転車に乗って片道18kmを冬根雪になるまで雨の日も強い西風の日も通いました。それでも私は高校へ行けたのでよかったと思います。姉が仕送りをしてくれたから私は県立高校へ通学できたのです。高校卒業が近くになったとき、高校のPTA?がよい教師を招聘するために教員住宅を作るという話が出てきました。卒業生全員が3000円を出し合って5(3?)棟の家を建てるというものでした。これには私はほとほと困りました。ようやく卒業できることになり、これ以上姉に負担をかけることはないと思っていたからです。それで最後まで先生にお金がありませんと言いましたが、体育の先生や他の先生も私を説得にきました。それでとうとう親に相談しました。その結果、最後のお願いと言うことで姉に無心をしてくれました。そのために高校3年生の3学期の成績表には体育のすべての項目で1が並んでいました。今思うと体育がすべて1というのは卒業単位取得に関係なかったのかと疑問に思うことがあります。このことは後々になっても私の夢に出てきました。今風に言うとトラウマになってしまったのかも知れません。
 私は、2月の期末試験が終わると直ぐに上京して受験の日まで国分寺市に家を買って済んでいた姉夫婦の家にお世話になりました。受験は失敗しましたが、1年浪人して翌年は東京の公立大学に入ることが出来ました。その後もいろいろ相談に乗ってもらいました。姉は優しい夫に出会うことが出来、親思いの2人の子供に恵まれ幸せな生涯を送ったと思います。お姉さん、ありがとうございました。安らかにお休み下さい。


台風26号 その後の被害報道によると(20131017)

2013年10月17日 16時01分39秒 | 日記・エッセイ・コラム

 台風26号の被害が広がっています。当地でも小学6年生の子が2人海岸近くで遊んでいて高波のさらわれて行方不明になっています。ヘリコプターなどを使って懸命に捜索していますが未だに消息は不明です。

 報道によると、東京都の伊豆大島で17人が死亡、40人以上の方が消息不明になっていると報じています。現在、自衛隊の応援を得て懸命に捜索していると言うことです。

 三原山周辺の道路が寸断されてしまったと言うことですが、原因は火山灰層の崩壊・崩落によると考えられています。そのさらに原因は数時間に800mm超という降雨量があったと言うことでしょうか。これは2番目の記録だそうですが、自然のコントロールはいつ出来るようになるのでしょうか。被害を受けた方々にはお見舞い申し上げます。そして犠牲になられた方々には心からお悔やみ申し上げます。

 その他の地域でも被害が出ているそうです。いま南方海上に台風27号が発生しました。この台風も26号と同じコースをたどる可能性があります。ただ海水温度が少し下がっていると言うことですから強大なものに発達する可能性は薄いかも知れません。それと偏西風が少し南下すると台風は北上が押さえられるかも知れません。日本へ近づかなければよいというわけではありませんが......


死ぬのが怖い?(20131016)

2013年10月16日 11時56分40秒 | 日記・エッセイ・コラム

 Aさんあなたは なかなか前向きな生き方が出来ないようですね。唐突な言い方ですが死ぬことが怖いですか。私はいつかは生命の終焉を迎えなければならないと思っています。それは生命体であったものが物質として自然に帰るのだと今は考えています。したがって死ぬことが怖いという感情はありません。私の家族には私の死後処理は指示書(遺言状ではありません)にしたがって欲しいと言ってあります。指示書には、連絡すべき所(日時指定)、物品の処分方法、宗教行事(これが最も困ることですが世間体を憚るならしても差し支えないが、戒名は不要)はできたらしないこと、使用していた各種機器類やわずかな財産の処分方法などが書いてあります。

 さて、死の恐怖の問題ですね。おそらく死後の世界があるというのが宗教の基本ですから、死ぬことを怖いと思う方は、宗教に精神の安定を求めるのもいいでしょう。しかし宗教は本当に死の恐怖から解放してくれるのでしょうか。それが叶わないのでこれでもかこれでもかと長い年月 神・佛と称する抽象的概念に祈るのでしょうね。そして宗教者に安定した生活?をさせているのです。これは社会の仕組みの中の話ですから現在は誰も壊すことは出来ないでしょう。
 宗教の考え方は、単純ではありませんがそれなりに面白いと思います。死後に極楽へ行きたいなら生きている間によいことをしなさいと説く。あるいは「神」を裏切る行い(罪?犯す)をしてしまったら「神」に告白をして許しを請いなさい。それで精神あるいは心理的には罪意識が消失する(のかもしれません)。生きている間にいいことをすれば生きている間によいことがありますよ。とは言いませんね。何故でしょうか。それは不確定要素があるからです。それと人々に死の恐怖を与えられないからです。その結果、宗教が成立しなくなりますね。

 私の知人で科学を捨てて外国の宗教系の大学へ進学した人がいました。彼は数年間宗教学について勉強しているうちに、純粋に神を敬い神を信じる人たちがいないことに気がつきました。教授間の醜い争い、人間の生々しい所業に彼は絶望して退学し帰国しました。そして宗教を信じながら科学に全うしました。

 私は科学と宗教的な考え方には、どうしても相容れない原則があると思います(もちろん私の宗教に関する乏しい知識からの判断ですから正しい考え方とは言えないかも知れません)。それは宗教では、「神」は絶対であり万物はすべて「神」の導きによって創造されたと考えるようです。これに対して、科学はあることが存在するのはすべてその原因があると考えるのが原則です。何故そこにそれがあるのか。その理由を解き明かして行くのが科学の発想なのです。いつの時点で現在のような結果になったのかを明確にすることが科学なのですね。「神」の創造物であると言うことでは納得できないのです。これらの考え方がどこかで合意するとは考えられません。

 こういう考え方は、暴論かも知れません。難しい話になってしまいました。これ以上書くと複雑な問題が生じるかも知れませんので終わりにします。
 私事ですが、先日姉の通夜・告別式に参列してきました。姉の棺の前で夫が別れの悲しみのあまり噎んでいました。これは深い愛情の顕れで、美しいと思いました。

 また、数十年前になりますが、私の先生が突然亡くなり、K大学構内の教会で通夜?があり参列しました。献花をするときに奥様に挨拶したときのことです。ふと奥様の足下を見ると小さな水たまりが出来ていました。それが涙であったことを知って、私は感動しました。これほどまで夫のことを愛していたのだと思いました。それは宗教儀式を越えていたと私は感じました。
 しかしケネデイ元米大統領夫人は、夫と死別後いろいろな事情があったのでしょうがまもなく再婚してしまいましたね。こんな話はいくらでもありますが、当時多くの人が呆然としたと報道されました。人それぞれにいろんな生き方があります、自分の考えにしたがって生きていくのが最良なのかも知れません。他人の心の中に入っていくのは行き過ぎでしょう。私も気をつけなければなりません。

 宗教論はあまり書くととんでもない問題に発展することがあります。だからほどほどにしておくことにします。


台風26号 当地をかすめて通過

2013年10月16日 09時21分03秒 | 日記・エッセイ・コラム

 今朝の空は台風一過とは行きませんでしたが、心配していた台風26号は私の予想通りに暴風圏が当地をかすめて東側を通過しました。昨夜22時頃から今朝4時頃にかけて風鳴りをともなう強風と屋根や雨戸をたたく強い雨が大きな音を立てていましたが、外の作業場屋根のトタン板が一枚飛んだことと松の実と木の葉が沢山飛んできたことが被害と言えないほどの被害でした。よかった、よかった。

 しかし、まだ報道を見ていませんので分かりませんが他所では甚大な被害が出ているかも知れないので、被害の大きかったところの方々には改めてお見舞い申し上げます。


台風26号接近中20131015-16:57

2013年10月15日 17時59分35秒 | 子供のための科学のお話

 秋も少しずつ深まってきて、台風の季節も終わりかと思っていたら26号が東海関東南部に接近中と発表されました。当地では現在北東の風が時々強く吹いています。雨もその風に乗って北側の雨戸をたたいています。お子様のために台風の進路と自分のいる位置における風向きの変化について説明しましょう。

 台風は、次のように考えると理解しやすいでしょう。透明なビンに水を入れて口と底を持ってぐるぐる回すように振りまわします。 ビンの中の水はぐるぐる回ります。そのままの状態でビンを逆さまにすると、水は勢いよく口から吹き出します。そして真ん中に穴が開いて空気が中へ吸いこまれていきます(出来たら風呂場など広いところで実際にやってみて下さい)。これが台風のイメージです。空気は見えないので水でやるとわかりやすいですね。空気がビンの中に吸い込まれるとその圧力で水はさらに勢いよく外へ出ます。空気の通る穴は水がないつまり雲がないのです。台風の場合はこれを眼が出来たと言います。TVや新聞などの写真を見ると台風の真ん中に丸い黒い部分があります。それが台風の眼です。眼の所は風が弱く晴れていることがあります。そしてその穴に向かって周囲の空気が渦を巻いて吸い込まれていきます。それが台風の風です。

 次に台風はそれ自身は動くことが出来ないが、周辺の気圧の状況とジェット気流の通路によって進行方向が変化すると言われています。2013101512
 気象庁の本日12時に発表された天気図(右図)を見てみましょう。台風の進路の両側に高気圧がありますね。その間の北に低気圧があります。台風はこの間を進むのです.左(大陸側)の高気圧が時速20km/hで南東に進み、右側(太平洋側)の高気圧は時速30km/hで東に向かって進んでいます。

 さらに低気圧も時速35km/hで東に進んでいます。台風は太平洋(右)の高気圧と北にある低気圧に引っ張られて北東方向に進む予想になっています。以上の話は専門家から見ると異議があるかも知れませんが、大方は当たっていると思います。

 今私の心配事は、台風が私の家の右側を通るか左側を通るかと言うことです。台風の風は向きがしょっちゅう変わりますが、通常は台風の中心に向かって吹きます。私の家は北川が少し高くなっており、西側は樹林があり風を緩和してくれます。南東側は低くなっており風がまともに当たります。それで台風の進路が気がかりになるのです。数年前に屋根が飛ぶという被害を受けました。

 明日の午後には台風一過と言う日本晴れが期待されます。被害が出ないように、あるいは軽くてすむようにと思ってベランダや庭にあるいろいろなものを午前中に整理してひもで縛ったおきました。役に立つとよいのですが。


初秋の十和田湖から八甲田山へ

2013年10月04日 13時31分10秒 | 旅行記

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   三沢空港に降りて近くのレンタカー店で車を借り、十和田湖へ向かった。途中の奥入瀬渓流周辺はまだ秋が浅かった。木々の葉はまだ夏の名残をそのままに秋へ移ろうとしていた。とある川岸で写生をしている人がいた。その人の許可を得て写真を撮らせてもらった。奥入瀬渓流はどこでも絵になりそうだが、ここはと言うところがあるのだろう。その真剣な眼差しに言葉もかけずにしばらく眺めていた。

 やがて十和田湖に到着し、南へ行く道をたどった。

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 十和田湖畔は週日なのに観光客が大勢いた。湖畔にある乙女の像付近はナナカマドが真っ赤な実を付けていた。秋が近づくと少しの標高差で木々の色合いが変っているのが分かる。

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 湖畔の土産店で紹介された青森県の共済組合関係の宿(宿の名前は不明である)に泊まった。翌朝外へ出てみると、一面の朝もやが立ちこめていた。それは何とも幻想的な様子であった。夏の盛りには子供を乗せ、あるいは恋人を乗せて十和田湖に遊んだボートは、シーズンが終わると岸辺へ引き上げられて船底を見せていた。翌年のシーズンまでの休息を楽しむのだろうか。

 十和田湖の西岸は、広大なブナ林が広がっていた。ここは、世界自然遺産に登録されている白神ブナ林につながるところである。ブナの葉は仕事を終え木々から去って行く日を迎えたようだ。

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Pa210583         八甲田山への途中は、樹種が変わり美しくい彩りを見せていた。

 少し大きめの湖があり、その対岸に蒸気が立ち上っていた。温泉でもあるのだろうか。周辺には家らしいものは一軒も無かった。
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 八甲田山は1584メートルの大岳を中心とした山塊を言う。私がロープウェイで登ったのは、田茂萢岳(タモチヤダケ;標高1324m)である。頂上に湿原が広がっていて木道が整備されており、ゆっくり歩いて30分ほどの散歩コースになっている。左がロープウェイから裾野を写したもの、右は山頂から南方を 写したものです。

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秋の野の花(20131004)

2013年10月03日 21時56分46秒 | 日記・エッセイ・コラム

Photo  何かの時代劇映画の終盤近くに出てくるシーンで、捕り手と追いつ追われつしていた山賊の親分がついに鉄砲隊に取り囲まれて捕り手の隊長とにらみ合っていた。山賊の親分はもはやこれまでと覚悟を決めて刀を高々と振り上げた。すると捕り手の鉄砲が一斉に火を噴いた。山賊の親分は、撃たれながらススキの穂先を刀でなぎ切った。するとススキの穂が逆光の夕陽のなかに舞い上がりキラキラと散っていくPhoto_2様子が映っていた。そのシーンは私の瞼に焼き付いて今でもありありと見ることが出来る。その映画の題名は「箱根風雲録」と思っていたが、VTRを買って見たがそんなシーは最後まで出てこなかった。もしかしたら私の思い違いかも知れないと思ったが、他に思い当たる映画を思い出せないでいる。そのシーンは箱根仙石原で撮影されたと言う話まで覚えている。それで例えば2本の映画が思わ

Photo_3ぬところで重なって交差したのかも知れない。

 秋の七草に出てくるのは、萩、尾花(ススキ)、葛、撫子(ナデシコ)、おみなえし(女郎花)、藤袴(ふじばかま)、そして桔梗(キキョウ)の7種である。当地では女郎花と藤袴の花を見ることが少ないが、キキョウは園芸種として観ることが出来る。中学時代には野草のキキョウを学校行事でキキョウ狩りをしたことがある。

 葛の花は当地では9月中旬に咲いていた。

Photo_4 下の写真は、セイタカアワダチソウとススキの生存競争をしている場面である。この両者は初めは別々の所に生えている。しかし数年すると同じ場所を共有?するようになる。しかしさらに数年するとセイタカアワダチソウがススキを圧倒しているように見える。が、さらに数年するとススキの株が大きくなり、セイタカアワダチソウがススキの株から追い出されてしまう。

 しかし完全にススキの株から追い出されるのでは無く、数本の草が残っている。

 この現象には何か理由があるのだろうかと思う。専門家の方はもう承知していることなのかも知れない。

 10年以上も通勤途中で同じ場所の観察を続けていると時には面白いことを教えられる。


手前味噌 他人の意見を聞かないで 自分ひとりがご満悦(20131001)

2013年10月02日 07時44分21秒 | 日記・エッセイ・コラム

 よく友人達と話をしているときに自慢話をとくとくとする人がいる。

飲み会で会うといつも同じ事を自慢している。聞かされる方はうん

ざりする人もいるが、前に聞いたのを忘れているのかふむふむと

言って聞いている人もいる。こんな事はよくあることでたわいの無

い話である。しかし自慢話も程度を越えると弊害が出ることがあ

る。

 どんな場合でも何かを作るときには細部にわたる打ち合わせを

して目的のものをデザインすることが基本である。もちろん依頼す

る方も細部にわたる理解をしていなければならない。私の友人の

建築設計士の方も設計を受ける場合には微に入り細にわたり打

ち合わせをするという。そうして依頼者の満足できるものが出来

るという。

 私はIT関係のボランテイア団体に所属しているが、そこで奉仕

をした後で日誌を付けることが求められていた。それはEXCEL

上にフォーマットがありそこへ記入するようになっている。ある日

私が書いた日誌によってソフトウェアーが壊れたと、ホーマットを

作った人に苦情を言われたことがあった(実際には壊れたので

は無くソフトウェアーの不備によるものであるのだが)。どういうこ

とかというと、報告を記入する範囲を超えると、ある集計をする

コマンドの入っているセルが移動してしまい後に不具合が生じ

てしまうことだという。そんなことは、セルが移動したときに後の

処理をするところと連動するようにしておけば済むことでは無い

かと思う。飛んだところで制作者の限界がでたのかも知れない。

 こんなソフトウェアーをもし有料で作ったとすると後々いろいろ

な問題が出てくるのでは無いだろうか。独りよがりには困ったも

のである。そういう人ほど自尊心が強く自分の不備を他人の責

任にしようとする。やれやれ.....。