寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

再びパリで

2015年04月02日 10時27分55秒 | 旅行記

     

 この旅もいよいよ終わりに近づきました。再びパリについて

どうしても行きたかったところは、パスツール研究所です。

パスツールは私の生き方を決定づけた偉人の1人です。

そのことは『その日から ...』にも書きました。偉人の伝記が

こんなに人の生き方に影響することがあるんですね。

 3枚目の写真は有名な話を語り継いでいます。簡単に書きますと、

狂犬に咬まれた子供を鍛冶屋に連れて行き,焼き火箸を傷口に

突っ込んで”焼毒”して子供を救ったという話です。

 研究所の中に博物館がありいろいろな展示品がありました。医科学

に興味のある方は是非お薦めしたいスポットの一つです。

      

 午後はノートルダム寺院へ行きました。柵のない危なっかしい上下混合の

階段を上り屋上に着くとパリの町並みが遠くまで見えました。古い建物

なので、彫像が風化して丸くなっていました。パリも昔は酸性雨が降った

ようでその影響かもしれませんね。そういえばオペラ座の地下で長ーい

炭酸塩のストロー(鍾乳石の一種)を見たのを思い出しました。

その後で、セーヌ川の遊覧船に乗って水面から町並みを見て回りました。

 地上で見るのとはまた違った風景を見ることが出来ました。

 さて最後の日,16時頃の便に乗るために早めにド・ゴール空港へ行きました。

免税店を見て回っている内にいつの間にか時が過ぎ、出発のアナウンスを

聞き逃してしまいました。最後のアナウンスを聞いて慌てて搭乗口に行き

最後の乗客として登乗することが出来、すんでの所で間に合いました。

 途中、韓国の空港でトランジットしたあと深夜成田空港に着きました。

最終列車に乗ってようやく自宅に着きました。

 この旅はマラガで開かれた国際航空宇宙学会に参加発表することだったの

ですが、旅の話が中心になりました。

 次回は未定ですが、いつかストックホルムでの学会に行った際の旅に

ついて書く予定です。

 

 


さらばアルハンブラ宮殿 再びパリへ

2015年03月30日 09時25分39秒 | 旅行記

 グラナダ滞在最後の日、アルハンブラ宮殿に別れを告げてパリへ向かうことにしました。何故パリかというと航空機の発着便がパリになっていたからです。
 初めはグラナダから鉄道を乗り継いでマドリードへ行くことにしていたのですが、時間に余裕があったのでバスに乗ってゆっくりと景色を見ながらLINARESーBAEZAへ行きそこからマドリード行きの列車に乗ることにしました。
 バスはよく晴れた中を山越え川越えてある地方のバスターミナル駅に着きました。うかつにもそこがLINARESと思ったのですが何か違う雰囲気なのでバスの運転手や歩いている人に聞いてまわったのですが全く言葉が通じません本を持っていた学生風の人にも聞いたのですが言葉が全く通じないので困ってしまいました。ウロウロしていると、1人の男性が近づいてきて"どこへ行きたいのだ”という風に身振りで示してくれました。私のスペイン語は全く通じないので地図を出してここへ行きたいと示すと男性は私もそちらの方へ行くので一緒にこのバスに乗ろうといって案内してくれました。その町はBailenという名の町だそうで、そこからLINARESという大きな市へ行きそこでバスを乗り換えて件の駅へ行くと言うことでした。

このバスに乗ってLINARESにつきました。マラガからグラナダへ行くときに乗ったのもこんなバスでした。

 LINARES市までは1時間ほども掛かったように思いました。列車の発車時刻もあり、バスに乗ると知らない町だったので長く時間が掛かったのかと思ったのですが実際にはもっと短かったかもしれません。LINARESについてそのままバスに乗っていましたが、ここで乗り換えると言うことを思い出してLINARES-BAEZA行きのバスに乗り換えました。そうして駅に到着したのは列車到着20分ほど前でした。危うく乗り遅れるところだったのです。見知らぬ旅行者に親切に案内して下さった男性に感謝します。

RENFE というのは鉄道という意味ですね。

駅は多くの場合平屋になっています。ホームは段差のない造りがほとんどでした。

列車の編成を書いてありました。

 列車に乗り数時間して無事マドリードにつきました。マドリードにはまだ見たいところが沢山あったのですが、名残惜しくもパリ行きの寝台車に乗り換えました。列車が発車すると車掌がきてパスポートを預かるといって持って行ってしまいました。
 夕食は食堂車でとりました。食事はスペインワインを飲みながらゆっくり寛ぐことが出来ました。
 その日はとんだハプニングがあったのですが、それもまた旅の楽しみかもしれませんね。
 
 


アルハンブラ宮殿(2)

2015年03月06日 09時29分05秒 | 旅行記
 アルハンブラ宮殿は長い歴史の中でいろんな民族の影響を受けてきました。そのために建物の中にその民族の影響が見られるとグラナダの書店で購入した書物に書いてありました。その書籍を読んで、私は建物の装飾が統一されていないのはどうしてなのだろうかという疑問が少し理解できました。
 
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 私が宮殿の庭をゆっくり歩いていると、マラガの学会で一緒だった人達が駆け足でやってきました。学会のアフターツアーに参加したのだけれども、ここは30分間くらいしか時間がないと言うことでした。

    
       
 アルハンブラ宮殿は小高い丘の上に築かれた城塞の様相を見せていますが、中には水をふんだんに使った美しい庭園があり、協会やホテルもありました。ゆっくり1日をかけて見て回ったアルハンブラ宮殿に夕日が映えるようになって宮殿を話kぁれおしみながら後にしました。
 明日はグラナダからRENFEという駅へ出てそこからや交信台車に乗って再びパリへ向かいます。

思い出話「島原、雲仙そして有明湾水門

2015年02月14日 21時16分32秒 | 旅行記
 数年前の話で恐縮ですが、有明湾堰堤の水門の開閉問題が話題になったので思い出したことなどを記録しておこうと思いました。はじめに位置関係を見きましょう。長崎県の東部に位置し、有明湾に沿って半島をなしている。下の地図はグーグルマップから引用しました。

 この旅行は長崎の友人を訪問した後で足を伸ばしたものです。雲仙地獄を見て、妙見岳へロープウェイで登り、普賢岳の周囲を半周して島原に出ました。
 島原城へは更に数年前に行ったことがありました。城の広場で薪能を見物して、今回と逆コースで雲仙地獄へ出て長崎市へでました。島原城は1637-1638年に天草四郎率いる軍勢を以て幕府のキリシタン弾圧に抵抗した歴史が残されています。

 さてもう四半世紀前のことになりましたが、1991年6月3日普賢岳が爆発して大火砕流が発生しました。1000℃を越す高温の火砕流が時速100Kmを越す速度で島原市に向かって走り下ったそうです。
 その際に多数の人達が犠牲になりました。写真は大野木場小学校旧校舎の被災跡です。このような災害は数百年?毎に繰り返されると言われています。

 現在(旅行時)の普賢岳は頂上直ぐ下から雲煙が上がっていました。

 島原市は湧水が豊富で至る所に水場があります。そこでは年配の女性が話に花を咲かせながら洗濯をしたりその他の洗い物をしたりしている姿が見られます。
 島原から有明湾沿いに北上すると有明干拓地が見えてきます。ここは漁業者と農業者との間で利権騒動が発生し、政府も苦慮しいているようですね。干拓地を閉めきる堤防と水門を見に行きました。


 膨大な経費をかけて作った堰堤をそのまま放置してあります。これを災害と言ってはいけないだろうが人工災害と言うことが出来るかもしれませんね。早く解決して欲しいものです。

マラガからグラナダへ

2015年02月13日 09時51分16秒 | 旅行記
 私が行ってみたいところの一つにアルハンブラ宮殿がある。アルハンブラの思い出という素的な曲を思い出しながらアルハンブラ宮殿を思ったものであった。スペイン南部のシエラネバダ山地の一部を開いて作られたこの城は、その昔北方民族や東方民族そしてアフリカ民族に侵略され、それらの民族の影響を受けた建築物としても有名である。異文化の交差地域に建つこの城はスペインへ行く機会があったら是非行きたいと思っていた。其の機会が得られたことは幸運であった。マラガとの位置関係を地図で確認するとマラガの東南東に位置することが分かった。。

 マラガをバスに乗ってマラガに向かった。途中バスの運転手の脇に陣取ってカメラを構えた。スペインはここまで通ってきた地域の景観から乾燥性の農業国という印象が強くなった。

 グラナダへの途中でもオリーブやブドウの木が沢山植えられていた。牛の大きなフィギュアが高いところに飾られていた。牧場もあるのだろうかそれともステーキハウスの看板だったのだろうか。約3時間ほどのバス旅行でグラナダへ到着した。
 ホテルにチェックインして夕食を食べに外へ出た。案内書に書いてあるパエリアを食べようと思った。同行の人達とレストランについて早速パエリアを注文した。パエリアは3人以上でないと注文できないということであった。サングリアを飲み話をしながら待っていた。ほどなく、大きな皿に山盛りの魚介類が入ったチャーハンのようなものが出てきた。これがパエリアというものかと皆で食べた。中国料理のチャーハンとは違う味で美味しかった。残さずに食べてしまい、席を立とうとしたら、ステーキやその他の料理が出てきた。皆は満腹になっていたが全て食べ、最後のデザートもものすごく甘かったが完食してしまった。誰もがパエリアの後にステーキやその他の海鮮料理が出てくるとは思わなかった。ぶらぶらと散歩しながらホテルに戻り、一休みすることにした。今夜はホテルお薦めのナイトツアーに参加しようと皆の間で話がまとまった。

マラガにて

2015年02月04日 10時45分58秒 | 旅行記
 Hotel Melia Del Solへようやく到着しました。客室数数百というとても大きなホテルでした。夕食を食べて部屋で休んでいると日本の旅行社の方から電話があり、闘牛を見に行くツアーとホテルホールでフラメンコを見るイベントがあるがどうしますかというのです。私は少し疲れていたので牛の血を見るのは気が進まないのでフラメンコを見にホールへ行きますと変事をして地階ホールへ行った。そこでは入れ替わり立ち替わりいろいろなグループがフラメンコを踊っていた。足裁きと手の動きがすばらしく疲れを忘れて見とれていました。
 

 

 翌朝、ホテルの庭に出てみました。庭の両側に七階建ての客室棟があり、中央に二階建てのエントランスホールの建物がありました。
 中庭にはヤシの木があり大きな池もありました。

 
 
 
 
 
 ホテルから100メートルくらい歩くと地中海の海岸にでます。海岸を散歩している家族連れがいました。
 
 今日から4日間、ホテルの陸側丘の上にある会場で国際航空宇宙学会が開催されそれに参加しました。私の発表論文は、"The Basic Health Care System for The Crew Lunar Base " という表題でした。この論文はロシアの現役宇宙飛行士に賞賛され、”Acta Astronautica ”という専門学会誌に掲載を推薦されました。
 この学会のバンクエットで魚介類の切り身を5cm角ほどのパンにのせた“寿司”のようなものを食べました。サングリアという飲み物も美味しかったです。
 学会会場の入り口には、歓迎のためにバンドがいて演奏をしていました。
 
 街中には白い壁と赤い瓦屋根の家が建ち並んでいました。
 4日間の学会が終了した後で、アルハンブラ宮殿を見に行くことにしました。以下次回へ。

地中海を見にマラガへ(マラガに到着)

2015年01月29日 17時22分11秒 | 旅行記
 まだまだ見たいところが沢山あるマドリードに別れを告げて再び列車に乗った。

 マドリードからマラガへ行く旅はほぼ1日かかった。地図を見るとマドリードから南に行き次に西に向かう。ゴルドバに着いたら再び南に下るとマラガに着く。
 窓から見える風景はよく手入れのされたブドウやオリーブの畑がどこまでも続いていた。
 
 

 途中数カ所停車した駅である。乗降客は数人であった。

 ゴルドバに着く少し前に、近くにいた見知らぬ人が写真を写している私にもうすぐ谷が見えてくる。そこがこの付近で一番美しいところだから是非写真を撮って欲しいと教えてくれた。なるほど其の付近だけ他の平地と違う景観を見せていた。

 


 朝早く列車に乗り、マラガに夕方星が見える頃にマラガに到着した。トレモリノスと言うところのホテルへ行くのだがどう行ったらよいか分からなくて駅改札口付近でウロウロしていたら1人の男性が地図を書いて行き方を教えてくれた。お礼に3色ボールペンを上げたらとても喜んでくれた。教えてくれたようにバスに乗りトレモリノスバス停でバスから降りたら目的のホテルの真ん前だった。Melia Costa del Sol ホテルについた。

 この写真は数年前改装後のものである。私が宿泊した時のホテルの写真は次回紹介する。

思い出話「大韓航空機に乗ってスペイン マラガへ(1)」(20141010)

2014年10月10日 12時37分18秒 | 旅行記
 思い出話と言うことで少し古い話になります。1989年国際宇宙学会がスペイン・マラガで開催されることになり論文を投稿したところ採用されましたので出かけることになりました。参考までに論文名は「The basic health care system for the lunar base crew」というものでした。この論文はアイデアがよいと高い評価を得てソ連の宇宙飛行士の推薦により専門学会誌に掲載されました。     
 マラガというのはどこにあるのか知りませんでしたので地図で調べるとスペイン南西部の地中海に面したところにありました。
 さて、旅は制約の多い日本の航空宇宙学会企画のツアーではなく、自分で企画してツアーに出かけることにしました。
 航空会社は当時間もなく閉鎖されるというアメリカ・アンカレッジ経由パリ行き大韓航空機を利用することにしました。
 当時旅客機事故が最も少ないと言われていたことも大韓航空機を選んだ理由の一つでした。
 燃料給油のためにアメリカ・アンカレジに着くと周囲は雪景色でした。数時間をアンカレッジで過ごして初めの目的地のフランスパリへ向かいました。

初秋の十和田湖から八甲田山へ

2013年10月04日 13時31分10秒 | 旅行記

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   三沢空港に降りて近くのレンタカー店で車を借り、十和田湖へ向かった。途中の奥入瀬渓流周辺はまだ秋が浅かった。木々の葉はまだ夏の名残をそのままに秋へ移ろうとしていた。とある川岸で写生をしている人がいた。その人の許可を得て写真を撮らせてもらった。奥入瀬渓流はどこでも絵になりそうだが、ここはと言うところがあるのだろう。その真剣な眼差しに言葉もかけずにしばらく眺めていた。

 やがて十和田湖に到着し、南へ行く道をたどった。

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 十和田湖畔は週日なのに観光客が大勢いた。湖畔にある乙女の像付近はナナカマドが真っ赤な実を付けていた。秋が近づくと少しの標高差で木々の色合いが変っているのが分かる。

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 湖畔の土産店で紹介された青森県の共済組合関係の宿(宿の名前は不明である)に泊まった。翌朝外へ出てみると、一面の朝もやが立ちこめていた。それは何とも幻想的な様子であった。夏の盛りには子供を乗せ、あるいは恋人を乗せて十和田湖に遊んだボートは、シーズンが終わると岸辺へ引き上げられて船底を見せていた。翌年のシーズンまでの休息を楽しむのだろうか。

 十和田湖の西岸は、広大なブナ林が広がっていた。ここは、世界自然遺産に登録されている白神ブナ林につながるところである。ブナの葉は仕事を終え木々から去って行く日を迎えたようだ。

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Pa210583         八甲田山への途中は、樹種が変わり美しくい彩りを見せていた。

 少し大きめの湖があり、その対岸に蒸気が立ち上っていた。温泉でもあるのだろうか。周辺には家らしいものは一軒も無かった。
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 八甲田山は1584メートルの大岳を中心とした山塊を言う。私がロープウェイで登ったのは、田茂萢岳(タモチヤダケ;標高1324m)である。頂上に湿原が広がっていて木道が整備されており、ゆっくり歩いて30分ほどの散歩コースになっている。左がロープウェイから裾野を写したもの、右は山頂から南方を 写したものです。

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鹿児島は こわもての山と 西郷どん

2012年08月11日 00時17分43秒 | 旅行記

鹿児島は 強面の山 西郷どん(1)
  鹿児島には、仕事をしていた頃から数十回は訪れている。若い頃には沖永良部島や与論島のサンゴ礁の調査に行く途中で、列車から船への乗り換えの間の数時間を過ごす程度であった。これらの島での調査に関する余聞についてはいずれ書くことにする。

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鹿児島といえば、初めに思い出すのは桜島と西郷さんであろう。桜島は錦江湾の中にできた活火山であり、ほとんど毎日のように噴煙を噴き上げている。激しいときには鹿児島市内に火山灰が降り積もり、視界が悪くなることもあるという。そのために交通渋滞が発生するという。
写真2は、東急ホテルに宿泊したときの朝に写したものである.朝日を浴びて噴煙のこちら側は黒く見えるが、噴煙は白い色をしていた。

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次のの写真はあまりにも有名である。
   大正3年(1914)1月12日の噴火はすさまじく、原五社神社の鳥居が写真のように上部を残して火山灰に埋もれてしまった。その高さは3メートルあったというから2メートル半以上の降灰があったと記録されている。今この鳥居はそのときのままに保存され、鹿児島県の文化財に指定されている。
  この写真は、その鳥居の説明が書いてある。
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桜島の右側にでた朝日からエンジェルロードはまぶしかった。