寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

思い出話 「何気ない一言」(20130523)

2013年05月23日 16時13分28秒 | 日記・エッセイ・コラム

 若い人が高齢者を労る様子を見ていると心が温まる。なかなかできることでは無いと思う。しかし、最後に言った一言がそれまで親切に接してきたことを台無しにしてしまうことがある。そしていっぺんに気持ちを萎えさせてしまうのである。例えば、ある高齢者の方(M氏)が、若い方と一緒に日帰りの旅をしたという。天気も何とかもって楽しい一日を過ごすことができた。そして帰りのバスの時刻表を見ると、ほぼ同時刻に発車する立ち席だけになってしまった急行バスと時間が2倍かかるが座っていける普通バスがあった。どちらのバスに乗るかで迷っていた。M氏の方はかなり疲れていたので座っていく方を選んだ。そのとき一緒にいた若い方が、「面倒くせー」と小声でつぶやいた。その一言で、この若い人の気持ちが分かったような気がして、迷惑をかけているんだなと思うようになったという。これからは迷惑をかけてはいけないと思ったそうである。それでこれ以後この若い方にどこかへ行くときに同行してもらうことを止めることにしたという。何か誤解があるのかも知れないが寂しい別れである。
  筆者が初めて山手線の電車に乗って若い方に席を譲られたのは、品川へ行くために渋谷から乗車したときであった。当時筆者は70才に手が届いた頃だった。「品川までですから」と遠慮したのだが、彼は再度どうぞといって降車口の方へいってしまった。筆者はお礼を言って気持ちよく座席に着いた。そのとき筆者も電車内で席を譲られる年になったのだと少し寂しい気がしたのも事実であった。
  乗り物の中で高齢者や身体に不自由のある方に席を譲るのは少々勇気のいることであったのを思い出す。しかし健常な若い人は、高齢者を初め身体の不自由な方に是非席を譲って下さるようお願いする。


思い出話「親友諏訪謙寿君逝くの報に接して」(20130521)

2013年05月21日 13時54分07秒 | 日記・エッセイ・コラム

  この2年ほど前から年賀状が来ていないのでどうしたのかなと思っていた。先日出したはがきを見て細君が電話をくれた。諏訪君は東日本大震災のときに体調を崩してその後3週間ほどして静かに自宅でなくなったという話であった。電話で地震のときの様子を話してくれた。諏訪君の家は南三陸町から内陸部へ約40キロメートル弱西に行った栗原市というところにあった。3月11日の地震の揺れはかなり酷く2階部分が崩れたし平屋部分も壁が崩れ屋根瓦が滑り落ちて甚大な被害に遭ったという。地震発生から数日して無事を確認する電話をかけた。そのとき諏訪君は被害は大きく出たが夫婦2人無事であるので心配しないでくれと言っていた。しかし、そのときの諏訪君は細君の電話によると、衝撃の酷さに茫然自失してしまったようだったという。70歳代半ばになって災害に遭った方が営々と築いてきたものが一瞬のうちに崩れてしまったのだから宜なるかなと思う。 筆者は、小学校4年から高校卒業するまでの9年間を過ごしてきた宮城県の色麻村(今は町)を第二の故郷と思っていたので、筆者にできる範囲の支援をしたが、諏訪君の電話の声を信じて直接の支援はしなかった。今思うと悔やまれたならない。
 筆者が諏訪君と知り合ったのは古川高校に入学して二年目に化学クラブに入ったときに遡る。諏訪君は、いつもクラブの部室となっていた化学実験室にいて仲間と何か実験をやっていた。一枚だけ残っていた左下の写真は、一年生に滴定の指導をしているところのようである。筆者が諏訪君と深く付き合うようになったのは、秋の文化祭のときからである。筆者は普段、通学に時間がかかり放課後にクラブ活動に参加することは少なかった。それで文化祭の前から積極的にクラブ活動に参加した。              Photo           

 諏訪君は、文化祭の企画からいろいろな役割の分担まで真剣に切り盛りしていたのを思い出す。当時化学クラブで展示したのは、井戸水の水質検査、イチゴやバナナなどの人工香料の合成、そして筆者が中心となってやった、イオン交換物質(パームチッド:高品位石炭を硫酸処理し、その後酸を除去したもの)の作成とイオン交換樹脂を使った純水装置の展示説明などであった。
 この話はいつかこのブログに書く機会を作りたいと思う。
 高校の卒業式に出席しないで上京した筆者に、卒業証書を持ってきてくれたのも諏訪君であった。彼は東京で職を探し新しい出発を始めることにしていたので、そのまま十条駅の近くに部屋を借りて住むことになった。細君とはそこで知り合ったようだ。ここでの思い出もたくさんある。
 というわけで、諏訪君には長い間親しくしていただいた。感謝の気持ちでいっぱいである。 改めて安らかなご冥福をお祈りする次第である。


囲碁の上達法はあるのか(20130514)

2013年05月14日 13時57分37秒 | 日記・エッセイ・コラム

 何回も書いてきたが筆者は囲碁を趣味にしているが、なかなか上達しないので困っている。勉強でも趣味でも運動競技でも同じかも知れないが、楽をして上達する方法はないようである。などと今更言うことでもないが、囲碁に熱中した若い頃のことを思い出す。それでも囲碁を打っていていろんな人の感情の動きが見られるのが面白い。
  一昨日、町の囲碁愛好会の春季大会があった。結果から先に言うと、昇段したばかりの大会で4連敗を喫してしまった。昇段してAクラスい入り全勝して優勝した方もいるのだから立派である。また、五分の星を挙げて昇段が妥当と評価された方もいる。筆者の対戦相手は5,6,6,6段の方々であったなどと理由付けしたい気がするが、それは理由にならないので、とても情けないと反省している。

 今大会からルールが変わって、1段差1子(シ;石)、井目(セイモク;9個の石を前もって置いてハンデを付ける)に置く以上の場合に限って上段者がコミ7目を下段者にだす。持ち時間は各40分、賞品は6位(前回までは5位まで)まで、その他にブービー賞、ラッキー賞が新設された。同率者がいた場合は対戦者の勝ち数を合計し(スイス方式というそうである)、それでも決まらない場合は上段者が上位になる。それでも決まらない場合は高齢者が上位になる。
 参加者は7~3段のAクラス24名、2段から9級までの24人合計48名であった。
 筆者は新しい物好きなので?ブービー賞をいただいた。次回は頑張ろうと思う。
 ここで面白いのが、 I 氏のことである。プロの棋士でも対戦が終了すると戦後の検討をするのが通例である。それは次回よい碁を打つために行うのであり素人の筆者らにとっても大事なことである。もちろん対局中に口を挟むのは厳に慎まなければならないことであるが、対局終了後にあそこでこうやるのはどうだろうかと言うようなことは話すことがある。 I 氏は自分の打った手をけなされたと思うのかもしれない。どうも打ち碁の検討で自分の意見と違うことを言われるのが苦手のようである。打った手を検討すことはお互いのためであると思うし見ていた人にとっても勉強になると思うのだが。例えば、筆者が勝負所とも思えるところを、ここでこう打っていたら形勢が逆転していたかも知れないというと、I 氏はそんな配石になっていなかったという。対戦相手の方はよく覚えていてそう打っていたら勝負は分からなかったかも知れないと納得した。しかし I 氏は対局時に自分が打った手が最良?なんだなどと訳の分からないことを言う。石を置くまでどんなに悩むか。あるときは妥協してしまうこともある。いつも最良の手を打っていたら負けることは少なくなるだろう。 I 氏は自分の打った棋譜を覚えていないのかも知れない。それで対局後の検討も苦手なんだろうと思った。そんな I 氏はこの数年昇段できないで現状を維持している。負け惜しみのように昇段したくないから大会でほどほどに打っているなどという。そういう考えかたもあるだろうが、対戦相手に失礼である。
 ちなみに4段から5段への昇段規定は、年間6回の大会・対抗戦のうちの3~4大会で10勝をあげればよい。それが果たせない苛立たしさもあるのかも知れないと気の毒にも思う。鼻っ柱だけで無く囲碁ももっと強くなって後進者の指導をお願いしたいと思う。


放射能の除染について(20130510)

2013年05月10日 23時37分32秒 | 日記・エッセイ・コラム

 最近の報道によると、福島県の放射能汚染地域にある自治体にいろんな業者?の方が有効な除染効果があるといっていろんな技術や物質を持ち込んで試用して欲しいと言ってくるという。
 放射性物質は、物質が持っているエネルギーを消費し尽くすまでは放射能を出し続ける。しかし、エネルギーが少なくなると照射能の放出量が減少するために人体に危険を及ぼさない量になることがある。そうなるまでの時間は元素によって異なるが、4~8半減期を経過した頃と言われている。ただしこの時間は放射性物質の総量によって変わることは言うまでも無い。一般的言うと、人体が受ける放射能の量を減少させるには、
1.原因物質を遮蔽体で覆う
2.原因物質から相当の距離をとる
3.原因物質接触する時間を短くする
というのが原則である。
 ここで問題になるのは、放射性物質を何らかの方法で他の物質に吸収することができたとしても放射能が消失することはないということである。例えば、除染液で洗い流したとしてもその除染液には含まれているのであって消失することとは関係が無い。
 したがって放射性物質をできるだけ濃度の高いものとして固形化し、それを安全を管理できる状態で隔離することが最良の方法になるだろう。そのために特定の元素だけを目的にしたイオン交換物質などを開発することがよいのではないだろうか。
 話は変わるが、10年ほど前にある会社が高熱増殖細菌による有機物分解反応を利用して堆肥を作るという話を聞いた。それを紹介してくれた方とその会社に見学に行った。現地に着くと大阪から来たという方が一緒に見学するという。この方は大阪のある科学博物館の方だと紹介された。見学が始まると会社の方が、屎尿コンポジットをこの方法で処理すると有害金属が検出されなくなると、東京にある某食品分析所で分析してもらったデータ表を見せながら説明してくれた。たしかに原料中には水銀(Hg)やカドミウム(Cd)が存在するのに、高熱増殖細菌で処理した物質の中には両元素ともに検出限界以下と記述されていた。会社の方はこのデータをもとに生産された堆肥は安全であるという。ここで問題になるのは、両元素はどこへ行ってしまったのだろうかということである。大阪の方は、別の元素に変わってしまったのではないかと述べた。そんなことは決して無いと考えるのが現在の科学的な判断である。
 ここで筆者が問題にしたのは物質Aから物質Bに変化するときに物質Aに含まれていた物が物質B中に検出されなくなったと言うことは、物質が変化する際に抜け出してどこかに貯留されていることかも知れないと言うことである。この工場の作業場はコンクリートでちりとり方に囲んだオープンな状態であることである。したがって、水銀やカドミウムはどこかに貯留されている可能性がある。作業場が改善されない限り、有害元素が現状では放置されていることになる。将来何か問題にならなければよいと危惧している。

 

思い出話「母と見た東京オリンピックの練習風景」(20130508)

2013年05月08日 13時29分14秒 | 日記・エッセイ・コラム

 昔の事を話し出したらもう先が知れていると言われることがある。筆者もその年になってきたと言うことだろう。それでこれからしばらくの間、時々昔話を書くことにしたい。
 太平洋戦争が昭和20年に敗戦を迎え、それから19年で日本は奇跡とも言われる復興を成し遂げた。そして昭和39年(1964)東京でオリンピックが開催された。世界の多数の国からたくさんのお客さんを迎えることができることを国民みんなが喜んだ。期間中の入場券は発売と同時に完売状態になり、手に入れることは大変困難であった。
 筆者は、両親にオリンピックの雰囲気を見てもらおうと思ったが入場券を手に入れることができなかった。そんな時、勤め先大学の体育科のK氏が練習場でよければ入れてあげるといってくれた。それで指定の日に母を連れて代々木の体育館へ行った。指定された門のところにK氏が待っていて直ぐに練習場へ案内してくれた。練習場ではイタリアの選手たちが体操の練習をしていた。鉄棒競技の練習で選手がくるくる回る様や床でぴょんぴょん跳ね回っている様子を見て母は涙を流して感動していた。明治30年生まれの母は太平洋戦争中も含めて外国人に対しては異常なほどの恐怖感を持って過ごしてきた。その母が平和な社会になって身近にイタリアの体操競技の選手の練習風景を見て、恐怖感を忘れてしまうほど感動したことをみて筆者自身はそのことに感動した。
 今、2020年のオリンピック開催を東京でという運動が展開されている時期に上のようなことを思い出した。