寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

ヤモリが活動を始めました

2017年05月31日 10時50分30秒 | 日記・エッセイ・コラム

 昨日夜、洗面場の窓ガラスの向こう側に、ヤモリの姿を

今年初めて見つけました。早速カメラを取りに書斎に戻っ

て来るともうどこかへ移動してしまった後でした。

 ヤモリのお腹部分がかなり膨らんでいましたから、もう

すぐ子孫ができるようです。毎年かなりの数のヤモリが我

が家を守ってくれています。これからもカメラを準備して

現れるのを待ちます。


記憶に残っている映画(69)「イルカの日」

2017年05月27日 14時27分15秒 | 寓居人の思い出話

 チンパンジーやゴリラなどの霊長類の研究は、京都大学が

有名ですね。チンパンジーやゴリラを研究対象に選んだのは

両者ともに高い知能を持っていると推測されたからです。

「イルカの日」という映画は、知能の高いイルカに言葉を教

えている研究者とイルカの心の交流の話です。イルカと対等

に会話ができる日を夢見て懸命に言葉を教えている内にイル

カが少しずつ言葉を覚えていき、研究者の言うことを理解で

きるようになると、それを悪事に利用しようとするグループ

が現れます。人間に意思が通じるようになったイルカに大統

領暗殺を命じるという設定で話は進行します。

 知能の高い動物を殺してはいけないという団体がのほんの

イルカ漁を批判したり、捕獲を妨害したりしています。しか

し今の世界では、細工の知能を持っているとされる人間が、

同じ人間を殺していますね。しかも何も悪事に荷担したとい

えない一般人をです。そうかと思うと人を殺すための道具、

つまり武器を開発しそれによって世界を恐怖に陥れている国

もあります。その国をまた利用しようとする国もあるようで

す。人間は世界をどう指定と思っているのでしょうか。使い

切れないほどの富を抱えることも 富を持っている他人を殺

傷してもそれを奪いたい。あるいはすべての国を自分と同じ

考え方の国にしたい。と考えるのですね。無意味だと思わな

いのでしょうか。そういう考え方に拘っていれば、いつかは

破滅のときが来るのは、歴史が証明しています。何故人は、

先人達の失敗を繰り返すのでしょうかね。

 かって、私は若い人たちに人間の世界から争いをなくすこ

とができるかと問うたことがありました。

 人間の愚かな行動をどこで断ち切るかが今後の世界のあり

方を決定する最も重要な問題です。ほとんどの人はその方法

を理解しているはずですが、自分一人では何もできないと感

じてしまうのですね。勇気を出して自分のできる方法で、欲

望渦巻く世界を争いのない世界にしたいものです。

 そのためにイルカの協力を願うのは一つの方法ですね。

 イルカに悲しい鳴き声を上げさせないようにしたいもので

すね。


記憶に残っている映画(68)「阿部一族」

2017年05月24日 09時56分34秒 | 寓居人の思い出話

 映画の内容が史実と異なると行ってああだこうだというのは

どうかと思いますが、「阿部一族」という映画もそういったコ

メントがついて回っていましたね。私はこの映画を見たとき、

主従の関係がこんなにも強いものとは知りませんでした。強い

絆で結ばれた主従の主が亡くなったとき、従の方が主を冥土ま

で守ると言うことがあってもおかしくないと思うこともありま

した。細川忠利の病状が悪化してくると、側近のもの達が主人

に従って準することを願い出た。”生きて新藩主を助けよ、殉死

はならない”という達しが出た。やがて忠利が亡くなったとき、

側近が次々と殉死する中、阿部弥一右衛門は仕事を続けていた。

阿部弥一右衛門は前の主の言いつけにしたがって苦衷の中で生き

ていた。のうのうと生きて殉死しないという非難の声が大きく聞

こえたとき一族を集めてその前で切腹する。それが不忠であると

され、殉死の扱いをされなかった。そして忠利の一周忌法要の席

で断髪する。それを非礼であると逮捕され絞首されてしまう。

 度重なる恥辱に業を煮やした弥五兵衛は、屋敷に立てこもって

半の差し向けた討っ手と壮絶な戦いの結果全員討ち死にしてしま

う。

 藩主の命令は絶対のものである時代に、その命令にしたがった

ものが非難され、武士の意地を見せるとそれがまた理不尽な仕打

ちの対象になる。それが度重なり、悲惨な最期を迎える結果にな

ってしまう。

 こんな事例は現代社会でも起きていますね。会社の命令は絶対

であり、それに従わないと酷い場合には無能呼ばわりされる。処

理しきれないほどの仕事を押しつけられて、寝る間も切り詰めて

仕事をこなさなければならず精神的に追い詰められてしまう。

 政府の指導があってもなかなか改善されない。残業がダメなら

自宅へ持ち帰ってやれという理不尽な無言の命令をされる。

 一千兆円を超える借金を抱え、それでも国民に多大な負担を強

い、外国へは気前のよい援助を行う。国民にとってはこれも理不

尽な要求と考えられますね。日本国民はおとなしいと世界でも評

判のようです。それを笑顔で受け入れますか。

蛇足ですが、

 乃木希典元帥は、明治天皇に殉死したと言われていますね。私

が知っているのは太平洋戦争の敗戦を天皇陛下が国民に告げたと

き、何人かの軍の高官が自決したり、皇居広場で割腹自殺をした

人が多数いたという話です。


コゲラが音を立て始めました

2017年05月18日 13時32分20秒 | 日記・エッセイ・コラム

 近くの林からこ、こ、こ、こ、こという音が聞こ

えてきました。

 初め遠くで鳴っている電話の呼び出し音かと思い

ましたが、違いました。1年ぶりに聞こえたコゲラ

がくちばしで木をつつく音でした。実際に見た鳥は

小さい子供の拳ほどの大きさで、くちばしが長くと

んがっています。羽は茶系と白系の縞模様です。

 前にコゲラの記事を書いた際に写真を付けました。

そのときはコゲラは車のサイドミラーをつついてい

ました。あんな堅いものをつついてくちばしは大丈

夫なのかなあと心配したものです。いろいろ総合し

てなんて大げさな表現ですが、この鳥は口簿そこゲ

ラという種類のようです。すぐ近くまでいかなけれ

ば逃げることはありませんでしたよ。私がコゲラに

気に入られたのか、コゲラが人を恐れないのかどち

らでしょうかね。

 


記憶に残っている映画「アンドロメダ病原体」(67)

2017年05月18日 00時31分02秒 | 寓居人の思い出話

 宇宙の大きさから見れば我が地球は、昔風なたとえを使う

と、芥子粒のような存在でしか無いですね。その地球に現在

72億人という数の人が生存しています。

 この映画は、そんな地球にある日宇宙から隕石と思われる

物体がアメリカの小さな村に落下しました。そして一夜が明

けると村中の人たちが謎の死体となって発見されました。

 すぐに特別調査班が組織され出動しました。もちろんその

村は存在しないことになり、徹底的な調査が実施されました。

 調査隊は、奇跡的に助かった人を発見しました。それは酔

っ払いと泣き叫ぶ赤子だったのです。その事実について検討

された結果、助かった人は激しく呼吸をしていたことが発見

されました。その人から病原体が採取され、最高密閉装置を

持った研究所へ移されて観察された。病原体はアンドロメダ

と命名されました。アンドロメダ病原体は、不気味に増殖し

ていくのでした。

 そんなとき研究所の一部が故障して病原体が外部へ漏出す

る危険が発生します。それを検知した安全機構がロックされ

る。それは研究所全体を原爆で焼却することを意味します。

 映画の次の段階は、安全機構のロックを解除することです。

その部分はあまり新鮮さが見られませんでしたが、アメリカ

映画らしく、ハッピーエンドになります。

 この映画で私が感心したのは、迅速に現地調査団を派遣す

る組織、体内の酸素濃度と病原体の関係を発見すること、高

度な安全装置を組み込んだ研究所、安全装置に異常が発見さ

れると自動的に外への脱出ができなくなり原爆を使って全体

を焼却するという考え方です。

 日本でレベル4の安全装置を備えた実験室を作ることで住

民との間で軋轢が起きる前にアメリカではこんな映画を作っ

ていたのです。さすがですね。面白い映画でした。


沖縄本土復帰45周年について思うこと

2017年05月16日 09時40分53秒 | 日記・エッセイ・コラム

 今から60年少し前、大学のクラブに沖縄県の出身者Aがいた。

彼はおっとりした性格のよい人でした。クラブで山へ行った夜

一つのテントで寝ることになり、シュラフに入って自分の故郷

のことに話が弾みました。私はその年まで19年間の前半分の年

月のは東京ですごし、後半分を宮城県で過ごしたので故郷とい

えるものが二か所あるという話をしました。彼は、俺には故郷

と呼んでいいかどうか分からないが、沖縄県の出身だと言って

いました。

 というのは終戦後の沖縄県は、地元の方々にとっては半分は

米軍の基地として占有され、残りの半分に押し込められるよう

な生活を押しつけられてきたというのです。故郷というのは、

その人にとって他県の人に自慢できることがあるものですが、

彼にとっては沖縄県には自慢できるもの(こと)が何もないとい

うのですね。私は報道などで戦争中の沖縄の様子を知っていま

したが、それは想像に絶するものだったようです。沖縄に米軍

が上陸してからは、着の身着のままであちこちの洞窟を逃げ回

り、あげくに日本兵によって洞窟からも追い出されることがあ

ったと言うことでした。私の東京大空襲とその後の学童疎開、

そして食料生産開拓団として荒地に入植して懸命に畑作りを手

伝った経験などにくらべものにならないほど大変だったことを

知りました。

 彼が大学へ入学するために沖縄県を出る際には、日本人であ

りながら身分を証明する身分証明書を常時携帯していなければ

ならないと言っていました。この処遇は、耐えがたいことだっ

たでしょう。米軍統治下にあった沖縄県民がそれを耐える生活

をしてきたのです。私たちはそのことを決して忘れてはいけな

いでしょう。

 沖縄県の本土復帰した年の翌年、ある政府関係機関?の「沖

縄県自然基本計画」策定のために全県の自然調査クループから

依頼されて石垣島の河川の水質調査を手伝ったことがありまし

た。

 当時の石垣島には戦争の爪痕は私の目には消えていたように

見えました。地元の方の話では、石垣島の代表的なホテルが米

軍に接収されていたことがあったと言うことでした。私も調査

期間中そのホテルの1室を利用することができました。

 石垣島は自然にあふれたところでした。道路をリクガメが歩

いていたり、川には多数の魚が泳いでいました。農地にはパイ

ナップルがたくさん栽培されており、その缶詰工場が数カ所あ

ったようです。その一つを見学したとき工場内にはいわゆる軍

歌が流れていて、そのリズムに合わせて製造過程の一つひとつ

がベルトコンベアー上で進んでいました。

 また、山裾のあるところではゆったりした雰囲気の中で、ウ

ナギが養殖されていました。

 しかし15年ほど前に学生と河川水の再調査に行ったときには

すっかり様子が変わっていました。観光化が進み高層ホテルが

並び初めて行ったときの印象は残っていませんでした。外から

見ると自然が薄くなっていくのは残念だと思うのですが、45

年という時の流れには逆らえないのでしょうね。

 沖縄県の基地問題をなんとかしなければいけないのでしょう

が、中国や北朝鮮の軍備拡張との関係で、基地縮小は先延ばし

にされてしまうのを心配しています。

 

 


アリの大移動の時期になりました

2017年05月09日 19時40分35秒 | 日記・エッセイ・コラム

 我が家の周辺には幾つかのアリの集団が住み着いています。

今日は久しぶりに玄関の内側と外のアプローチを掃除しました。

そのときは気がつきませんでしたが、その辺が乾いてきたとき

にきれいになったタイルの表面を見るとその端の方に砂が動い

ていました。

 よく見るとそれはアリの大群が移動している様子だったので

す。毎年この時期になると我が家の周辺で発生する現象です。

今日のアリは2ミリメートルもないほどの大きさの薄茶色の

アリでした。アリは初めに卵と思われる小さな白い粒をかずい

て移動します。その後でアリの行列が延々と続きます。それら

は何かを運んでいるようには見えません。が、一方通行で移動

していきます。

 このアリは油断していると家の中に入ってきて、砂糖の壺の

中に入り込み困ることがあります。砂糖を使うときに壺の蓋

を開けるとアリで白い色が見えなくなるほど入り込んでいます。

 こうなるとどうしようもなくなってしまいます。その対策と

しては、梅干しを買うときの容器を使います。容器に水を入れ

その中に小さめの容器に砂糖を入れてアリを寄せ付けないよう

にします。

 そのうちに体長5ミリメートルくらいの茶色のリが移動を始

めます。それが終わると少し大きめの黒いアリが移動を開始し

ます。このアリは毎年移動することはないようです。

 アリの斥候は家中どこにでも入ってきます。家の周辺にアリ

よけの薬剤をまくことにしていますがそれでも入ってくること

があります。そのときは砂糖を使った食物をアリの入れるとこ

ろには置かないように気を付けるしか方法がありません。

 アリも生きることに必死なんでしょうが...


白内障手術を受けた人が...

2017年05月07日 08時07分40秒 | 日記・エッセイ・コラム

 私の周辺にいる高齢者が次々に白内障の手術を受けています。

昔、私の子供の頃に目の白くなった人がたくさんいました。今

思うとその人達は白内障だったのかもしれませんね。

 今は手術自体は実働10分間前後でできるようになりましたが、

昔はその技術が無く失明状態になってしまったのですね。

 私の経験を書きますと、強度の近視眼だったので眼鏡をかけ

ないと遠くが見えない状態でした。その上に白内障が出てきた

ので全体がぼやけて見えるようになりました。それで思い切っ

て手術を受けることにしたのです。両眼が見えるようになると、

木々の葉がそよ風に動く様がはっきり見えるようになりました

ね。それから洗面台などの汚れが目につくようになりました。

さらに、ものが大きく見えるようになりました。これは、近眼

の眼鏡をかけるとどうしてもものが小さく見るのですが、それ

が改善されたためでしょうか。ただ、しばらくは保護眼鏡をか

ける方がよいという医師の指示を守るようにしています。この

眼鏡は花粉症用のものが売られているので便利になりましたね。

 何しろいえることは世界が変わって見えるようになったこと

です。不自由な思いを我慢している必要が無かったと喜んでい

ます。これからは世の中をはっきり見ていこうと思います。

 


いつの間にか初夏になってしまいましたね

2017年05月01日 11時34分36秒 | 日記・エッセイ・コラム

 4月は白内障の手術とその後のケアのために我が家周辺

の変化をゆっくり見ることができませんでした。病院の担

当医師からもう病院でのケアは必要なくなりました。すべ

て順調にいっていますので、今後は掛かりつけの眼科医に

定期検査をお願いするように手紙を書きましたので、それ

を持って受診してくださいと言われ東京まで通院すること

がなくなりました。

 眼帯もとれ、裸眼で久しぶりに家の周囲を見渡すと自然

がすっかり変わっていました。自然がこんなに明るい緑に

輝いているのを見たのは眼鏡をかけるようになったとき以

来です。65年ぶりというと大げさに聞こえるかもしれま

せんがずいぶん昔のことです。

 今は、新緑の小さな葉がそよ風に揺れるのもはっきり見

えます。昨夜の空に輝く星もたくさん見えました。

 しかしこれを書いているパソコンの画面ははっきり見え

ませんので、医師のおすすめ通り100円ショップで買った

強さ+2という老眼鏡をかけてみています。これで新聞も

よく見えます。

 医師の説明では、術後3ヶ月ほど経過すると目の状態が

安定するのでそのとききちんとした老眼鏡を作りましょ

うと言うことでしたから、100円老眼鏡はそれまで活躍

いてくれるでしょう。

 付け加えておきますとピンボケ写真もなくなると思い

ます。というのはカメラの微調整が適正にできなかった

のが原因でピントが甘くなっていたのですね。ニコンの

F4とSonyのα900の手入れを始めました。