子供の頃通学していた日本橋区立有馬国民学校(現在は、中央区立有馬小学校)を見に行ってきました。その日、空は雨模様の天気でした。後輩と地下鉄築地駅で待ち合わせ、築地場外市場をぐるっと一回りしてから、築地「田村」という料亭で昼会席を食べました。久しぶりに美味しいものを食べました。店に入って、前にも一回来たことがあるなと思い出しました。料理は一口サイズの品が40種類程、私たちの食べ具合に併せてゆっくり出してくれるので食べやすかったです。初めはお腹がいっぱいになるのかと心配していましたが、最後の雑炊は不要な程満腹になりました。三代目の田村料理長は、NHK初めいろいろな放送局のテレビ番組に出て有名ですね。私たちが食事をした3,4日後に「日本の巧み100人」に選ばれたと新聞で報道された。氏の料理に対する考え方は、多くの人たちに日本料理の本当の味を知って欲しいということで昼懐石を低料金で提供することにしたそうです。確かに美味しかったので、夜懐石にも挑戦したいと思いましたが、料金が1桁違うので当分は無理のような気がしました。
さて、有馬小学校へ行く前に清澄庭園、清洲橋この橋から今建設中のスカイツリーが見えました。それから成田空港行きのバス発着場のTキャット近くにある有馬小学校へ行くことにしました。清澄庭園は、天気が優れないにも関わらず結構人がいました。この庭園の売りは、江戸城建設の時に諸国の石(岩?)が集めら、その代表的な石を大きな池の周りに配したことだそうです。
清澄庭園を後にして、清洲橋を渡りました。この橋は多くの想い出があります。子供の頃に橋の上から「ぶっ込み」という釣り道具でセイゴを釣ったものです。この橋は鉄骨造りの頑丈なものです。橋の上から建設中のスカイツリーが見えました。上の方は雲の中に隠れていました。清洲橋を渡り、直ぐの交差点を左に折れるて100メートル程行くと頭上に高速道路が有り、そこを右に曲がると左側に有馬小学校がありました。私が通学していた頃の学校は水天宮の通りに面していたのですが、当時公園のあった所まで移動したようです。校庭は当時校舎に囲まれた内側に在ったのですが、これも変わっていました。学校には低学年用の小さなプールと、学校裏の公園の南端に大きなプールがありましたが、これもありませんでした。玄関の上にかかっている校章は昔のままでした。思わず玄関に入り、受付で昔のことを書いてある資料がないか訪ねましたが、休日なので詳しいことは不明とのことでした。受付の反対側に、終戦前後の年表があったので写真に記録してきました。学校の北側には川があり、その畔で夏にはトンボ釣りをしたものでしたが川も姿を消していました。
その後、水天宮へ寄り、昔のこと、お祭りの日に山車を引いたり、戦争中に八百屋で乾燥バナナを買ってもらいその甘さに驚いたことなどを思い出しながら話しました。水天宮裏の森永食堂や交差点対角のだるま食堂その向こうにあったウナギ屋(生前母を連れてきたことがあった)や交差点角の人形焼き屋を見てから、私が3月10日の東京大空襲当時まで住んでいた家を見に行きました。家並みはすべて変っていましたが、浜屋という佃煮屋さんは健在でした。中の橋の方を見るとそこは川面が高速道になっており、ブログに書いた岡田紙店などもありませんでした。中の橋の向こうに新大橋が見えましたが、日没間近でしたので行きませんでした。連れの人に空襲時の様子を話しながら、人形町の方へ歩いて行きました。
人形町も懐かしい町です。特に甘酒横町は記憶に残っている所です。東の方へ行けば、3月10日私の生死を分けた明治座があり、反対側へ行けば広い通りへ出て当時映画館があったり、寄席の末廣亭があった所です。今有名なたい焼き屋は休日で営業していませんでした。少し大きなお茶屋さんでクリームあんみつを食べて休憩してまたいろいろな昔話をしました。外は秋のつるべ落としを地でいくようにすっかり暗くなってしまいました。体が温まり疲れも少し解消したので帰途につくことにして店を出ました。店の直ぐのところに地下鉄の入り口があり、地下鉄で東京駅へいきそこで連れの方とお別れしました。
この日は、良い1日でした。昔の想い出を旅するというのは若返りにつながるのかもしれません。それと私をエスコートしてくれた連れの方も、足腰の弱い私のわがままを聞いて下され、大変気を遣ってくれました。有り難うございました。次の機会には、葛飾柴又へ行きたいと思います。帝釈天裏の「川甚」で食事をして、江戸川、金町浄水場、住吉小学校、高砂付近を巡りたいと思います。