寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

思い出話「エアロフロート機に乗って6」(20140818)

2014年08月18日 07時37分12秒 | インポート

 インターラーケンオストから再び列車に乗ってチューリッヒに向かった。発車して直ぐ右側に湖が見えてきた。これはブリエンツ湖という。湖に沿って北東方向に列車は進んでいった。スイスは湖の多い国のようだった。幾つかの湖を過ぎてしばらくするとルツエルン駅に停車した。ルツエルンは夜景が美しいというが今は昼間なので残念であった。また高名な交響楽団のある町だ。ルツエルン交響楽団の演奏したレコードを何枚も持っている。本当は下車して夜景を見たかったのだが、ミュンヘンまでの時間が少なくなってきたので通過することにした。夕方チューリッヒ駅に着いた。早速駅のインフォーメイションに行きホテルの予約をした。インフォメーションの年配の女性は私の条件を聞いて「あまり勧められないがあなたの条件を満たすホテルはここしか無い」とチューリッヒ湖北端から川になるところの一軒のホテルを紹介してくれた。そこへ歩いて行こうと駅を出ると2人の日本人の若い方がうろうろしていた。旅行者ではなさそうだったのでホテルへの行き方を聞いたところ時間があるので一緒に行きましょうと行って荷物を持ってくれた。目的地に近づくと川端にある柳の葉を風にゆだねているような風雅のあるところであった。ホテルへ着くと1階は何か飲み屋のようだった二階への階段を上がっていくと踊り場のような所に机に向かって本を読んでいる学生風の男がいた。彼にここが受付かと聞くとそうだという。3泊したいのでよろしくというと前金だというので宿泊代を払って、いわれた部屋へ行った。そこは5階の屋根裏部屋でベットが幾つもおいてあった。と言うことはここは日本風にいう布団部屋ということなのかもしれないと思った。荷物を置いて下へ降り若い方と食事に行った。

 食事をしながら話を聞くと2人はそれぞれ別のホテルの調理場で働いているという。日本のホテル協会からスイスのホテルで調理の修行をするようにと派遣されてきた。しかし調理場では毎日毎日ジャガイモの皮むきしかやらせて貰えないという。自分たちも日本では一応調理場で料理を作っているというのに。もう止めたくなってきたのだそうであった。食事を済ませて帰り道、明日は休暇を取ってチューリッヒを案内してくれるというので大丈夫かと聞いたが、問題ありませんというのでお願いした。ホテルの近くに来ると川端に植えてある柳の木の下にどぎつく化粧をし、着飾った女性が沢山いた。興味深そうに私の方を見たが仲間で話し合って無視した。アメリカ映画に出てくるシーンと似ているなと思った。そう、彼女たちは娼婦であのホテルは彼女たちが商売をするところだったのだと気がついた。これは変なところに宿泊することにしてしまったと思い受付の男性に今夜1泊だけにして後はキャンセルしたいというと、ジロッと私を見て「シュア」と言って2泊分の宿泊代を返してくれた。宿泊代を返してくれないと思っていたが案外正直なのかなと思った。翌朝荷物を持って1階へ降りると昨日の2人が待っていてくれた。事情を話すと、一人の方が私のホテルへ来て下さい親戚と言うことにして安くして貰えると思います。と言うので申し出を受けることにした。彼の働いているホテルは昨晩泊まった所とは雲泥の差であった。初めからこのようなホテルを頼めばよかったと思った。

 荷物を預けて町中にでると日本企業の看板がやたらと目についた。スイスの人はこれらの企業はスイスの会社だと思っていると言うことだった。まあ全員がそうとは思っていないのだろうが。2人のお陰でチューリッヒがよい想い出になった。感謝、感謝。お二人には「石の上にも三年」と言うことがあります。だから頑張ってください、と言葉を残してオーストリアのウィーンへ向かう。


想い出話 「ミュンヘンで(5) 差別」(20140115)

2014年01月16日 00時03分14秒 | インポート

 外国へ行ったとき一番不愉快なことはふとしたことで差別されることである。初めてヨーロッパへ行ったとき、ロンドン空港へ夜中に到着した。たまたま機内で臨席にいた若い方が、京都R大学仏教学科の大学院生であった。彼も初めての外国旅行だった。大学の生協で旅行の手続きをしてきたとかで運良く同じホテルに宿泊することになっていた。彼は事細かにいろんなことを調べてきたメモ用紙を持っていた。それのお陰で彼を迎えに来ていたリムジーンという自動車に初めて乗ることが出来た。そしてホテルに到着することが出来た。宿泊手続きをして翌朝一緒に朝食を食べに行く約束をしてそれぞれの部屋に入った。
 そして翌朝、2人で食堂へ行った。さすがに立派な食堂だと思って感心していたところ、ウェイターがつかつかと寄ってきて”ルームキーを見せろ”というので鍵を見せた。するとウェイターはお前さん達の行く食堂へここではなくこの通路を行ったところだと言って暗いローカを示した。今見た食堂は背広をきちんと着たりドレスを着た紳士淑女が静かに食事をしながら小さな声で話をしていた。
 仕方が無いので我々はウェイターに指示したローカを歩いて行った。そこはなんだか薄暗い食堂だった。そこにいる人たちはそれと解る有色人種だけであった。私は何故か納得してしまった。イギリスはもっと自由の国だと思ったがとんでもない話だと言うことを知った瞬間だった。
 私は初日のホテルを予約していただけなので次の日から泊まるところを探さなければならなかった。ホテルのフロントで聞いて3カ所ばかり探してもらった初めのホテルへ行った。ピカデリーサーカスと言うところにあったそのホテルはありふれたビジネスホテルのようで気さくなおばさんが受付にいて快く宿泊させてくれることになった。そこで5日ほど滞在した。ただ閉口したのは数え切れないほどの数のネコがいることだった。初めてヨーロッパへ着いた翌日に人種差別にあい気分を害したのは事実であった。
 数回ヨーロッパへ行った経験からフロントマンの話を良く聞いておかなければならないということを肝に銘じてミュンヘンへ行った。ミュンヘン駅の直ぐ脇にあるユーロスターズグランドセントラルというホテルを予約しておいた。宿泊手続きをしたときに朝食は6階のレストランでとるように言われた。翌朝、6階のレストランで食事をしようと食堂へ入った。非常に明るく静かな雰囲気の食堂であった。すると東洋人と思われるボーイが急いでやって来て「お前さんが入る食堂は7階の食堂だ」という。私は昨日チェックインの時に6階だと確認してあるというと、少し待ってくれと言ってルームキーをもってフロントへ行った。少時してフロントマンと2人でやってきた件のボーイは申し訳ないことを言ってしまった。許してほしいとフロントマンの前で謝った。ちなみに7階の食堂は東洋系の人たちでごった返すように騒々しかった。そのとき、はからずもロンドンでのことを思い出してしまった。
 ボーイの頭の中には何か自ら差別するあるいはされる習慣があり、それに従ってしまったのかも知れない。こうして私は世界の国には未だに平然と差別が日常的に行われている現実を見た。
 最近の報道によると、ある宗教に属する人たちは厳格な身分制度に縛られていて、下の身分の人との結婚は大変困難であるらしい。身分違いの結婚相手が行方不明になってしまうことがしばしば起こるという。科学技術の発達した世の中で身分の低い階層の人たちも収入が増加して収入に見合った生活(上層階級の人と同じかそれ以上の生活)をしているというのに、結婚というのは別の考えをもった年配者に多くいるようである。過去の習慣を乗り越えられる日はいつ来るのだろうか。
 私は与論島の海岸で夜空に輝く無数の星を見ながら学生に人間の世界から戦争を無くすことができるかと問うたことがある。これを読んだ皆さんはどうだろうか?
 世界に本当の平和が来るのはいつの日だろうか。若い人たちの希望を叶えてあげたい。


「逝ってしまった姉の想い出」Memory of My sister(20131019)

2013年11月05日 07時50分39秒 | インポート

  10月初めに姉が向こうの世界へ逝ってしまいました。
 今年になって多くの恩師や友人達の逝去の報に接してきました。その方達にはいろいろな意味でお世話になってきました。恩師の方の中には私の生き方に決定的な助言を下さった方もいらっしゃいます。そして友人の方々にも言い表すことが出来ないほどの親切を受けました。改めて感謝の意を申し上げます。
 さて、私の姉は87才になる十数日前に亡くなりました。姉には両親以上にお世話になりました。私が、今多くを望まなければ不自由しない生活が出来ることは姉の様々な援助のお陰と言っても過言ではありません。
  私は末っ子でした、それも直ぐ上の兄とは5才も離れていましたから兄姉喧嘩も出来ませんでした。私が物心ついた頃には兄が4人と姉と私の6人兄姉でした。太平洋戦争中から戦後の混乱期を通して姉は母とともに家族の食料確保に懸命にがんばりました。終戦の翌年春、宮城県の開拓地に行った時には、戦災を逃れ僅かに残った姉の着物を次々と米に代えていきました。年頃の娘だった姉の心中を察して幼心を痛めたものでした。村祭の時にお米に換えた着物を着た村の娘さんが歩いている姿を見て姉は涙を隠して泣いていました。

 私が高校へ進学できるかどうかを決めなければならないとき、姉は東京でM船舶KKという会社に勤めていて東京の様子を知らせてくれました。そしてこれからは学問を身に付けなければいけないと言ってくれました。当時のわが家の経済状態は、毎日の食事には困らないが学校へ行く費用まではとても都合が付かない状態でした。そんな折に姉は私がお金を送ってあげるから高等学校へ行きなさいと励ましてくれました。当時(昭和27年)の姉はどのくらいの給料をもらっていたのか知りませんが(例えば、昭和35年の大学卒の国家公務員の初任給が1万2,3千円程度だったと記憶しています)、東京でアパートを借りて生活していくのは大変だったと思いました。その中から毎月1500円を送ってくれたのです。県立高校の授業料他は月に550円でした。それに教科書や通学代(自転車、冬季には列車通学の定期乗車券代も必要でした。私は、村に一軒あった自転車屋さんで捨てた部品をもらって片腕の店主に教えてもらいながら組み立てた自転車に乗って通学しました)。しかし弁当はいつもカツオの削り節を醤油で味付けをしてご飯の全面にかけたいわゆる猫飯でした。たまに1枚を半分にきった海苔が削り節に変わり弁当の上部に1枚おきその上から醤油をかけたものになりました。級友に”また猫飯か”などと言われたのを思い出しました。おんぼろ自転車に乗って片道18kmを冬根雪になるまで雨の日も強い西風の日も通いました。それでも私は高校へ行けたのでよかったと思います。姉が仕送りをしてくれたから私は県立高校へ通学できたのです。高校卒業が近くになったとき、高校のPTA?がよい教師を招聘するために教員住宅を作るという話が出てきました。卒業生全員が3000円を出し合って5(3?)棟の家を建てるというものでした。これには私はほとほと困りました。ようやく卒業できることになり、これ以上姉に負担をかけることはないと思っていたからです。それで最後まで先生にお金がありませんと言いましたが、体育の先生や他の先生も私を説得にきました。それでとうとう親に相談しました。その結果、最後のお願いと言うことで姉に無心をしてくれました。そのために高校3年生の3学期の成績表には体育のすべての項目で1が並んでいました。今思うと体育がすべて1というのは卒業単位取得に関係なかったのかと疑問に思うことがあります。このことは後々になっても私の夢に出てきました。今風に言うとトラウマになってしまったのかも知れません。
 私は、2月の期末試験が終わると直ぐに上京して受験の日まで国分寺市に家を買って住んでいた姉夫婦の家にお世話になりました。受験は失敗しましたが、1年浪人して翌年は東京の公立大学に入ることが出来ました。その後もいろいろ相談に乗ってもらいました。姉は優しい夫に出会うことが出来、親思いの2人の子供に恵まれ幸せな生涯を送ったと思います。お姉さん、ありがとうございました。安らかにお休み下さい。


異次元からの便り?(Touch from another dimensional world?(20131105))

2013年11月05日 07時34分26秒 | インポート

 先日姉が他界し49日の法要も済みました。姉の夫は脊椎圧迫骨折と言うことで姉のいた施設に入所しているのですが、その義兄が次のような話をしていました。
 寝ているときだけで無く覚醒しているときにも、自分の周りに姉がいてうるさくいろいろ世話を焼いているような感じがする。こういう話はいろんな人たちからよく聞くことである。
 私自身も似たような経験があった。20才になる前に急死した(妻の)弟とは5,6回くらいしか会ったことが無かったのだが、妻の実家に行くと戸を開けていらっしゃいと言って出てくるような錯覚を受けることがあった。また妻の祖母には私は大変かわいがっていただいたが、やはり妻の実家に行くと夕方畑からひょっこり帰ってきたような錯覚に落ちることがあった。これは決して宗教的な話では無く、むしろ心理学的な問題かあるいは一種の習慣によるものなのかも知れない。
 義兄は、話し好きで子供たちの自慢話を(当時=昔)辟易するほど聞かされたことがあった。姉のことも「○○さんはね、こんな言い方をするんですよ」などと話してくれた。義兄にとっては姉の言い回しや動作がとても気に入っており、それが嬉しくてしょうが無かったのだと思う。義兄は、姉のことを深く愛していたのだろうと思うし、姉も義兄を非常に頼りにしていたのだろうと思う。それでその習慣がまだ残っており、こんな場合にはこうしてくれたなどと思うことが現実感として感じるのだろうと思う。
 ところでこの話を読んで下さっている方の中にこんな経験をしたことが無いだろうか。
 私は、時々誰かに肩の辺の衣服を引っ張られることがある(と感じることがある)。驚いて後ろを振り向くが誰もいない。それは一人で車を運転しているときであったり、がら空きの電車の中だったりする。SF的には面白いと思うのだが、もしかすると異次元の世界の生き物(人間?)が私にコンタクトしてきたのかも知れないと思ったりする。前にも書いたが、有料道路を走っているときに何気なくスピードを落とすとすぐ後ろに覆面パトカーがついていたりすることがあった。そんな時には何かが警告してくれたような気がするのであった。こんなようなことは1,2回というのでは無くかなり頻繁に経験したことである。


男の手料理 といえるかな? わが家風「青椒肉絲」20130804

2013年08月04日 23時39分00秒 | インポート

 私は中華系の料理は余り好きではないが、「青椒肉絲」というのは中華料理の中で私の好きな方の料理である。ピーマンやタケノコなどと肉のちりちりと堅めに炒めたあの食感は何ともいえないものである。それで青椒肉絲を作ってみようと思いたった。

 先ず材料を買い出しに行った。ピーマン、パプリカ、タケノコ、肉は一昨日使った残りのヒレ肉で間に合わせることにした。我が家族は、野菜をあまり食べない、それでニンジン、なすも加えることにした。

 初めに、野菜を細切りにしてポリ袋に入れカタクリ粉を入れてよくもむようにして混ぜ合わせる。それを少量の油で火が通るように炒める。

 次に肉を細切りにして野菜と同様にしてカタクリ粉をまぶして弱火で焦げないように炒める。火が通った頃に味付けをする(といっても、味の素のcook do を混ぜ合わせるだけであるが)。これに予め炒めておいた野菜を混ぜ合わせてさらに少時弱火で炒める。とろみが付いたら出来上がりである。

 今回は初めてのことなので、カタクリ粉をレシピの量より多く入れたためにサラッとしたものにならなかった。これは失敗であった。しかし味は家族がよく食べたのでまあまあだった。と思う。

 毎週一回は中華系の手料理を作ろうと思う。料理を作るというのはなかなか面白いものである。少し工夫をしてわが家風にするとさらに面白くなるだろう。