寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

囲碁の話「詭弁と戯言」(20131125)

2013年11月25日 16時33分58秒 | 日記・エッセイ・コラム

 私の参加している囲碁クラブにはいろんな方がいる。まあ、どうでもよい話なのだが、みっともないことなので記録しておくことにした。
 A氏は同クラブには私よりもずーっと前に入っていた。当時から4段のままであるらしい。それはクラブの昇段規定に達しないのが唯一の理由なのだと周辺の方は見ている。しかしA氏は昇段したくないから規定以下に勝率を抑えていることの理由付けを話している。聞かされた方は呆れてものが言えなかっただろう。
 しかし、可能性のあることをあえてやらないと言うことは、それがどんな理由であれ、対戦者に対して失礼である。「お前さんに勝ってしまうと来期に昇段してしまうので負けてあげるね」と言っていることになる。どんなゲームでも同じだと思うが、対戦する場合には全力を出して相手に立ち向かうのが前提であり、それが対戦相手に対する礼儀でもある。それができないのならそのゲームに参加することが間違っている。
 よく言われる比喩であるが、「獅子はネズミ一匹に対しても全力を出して相手をする」という。一方、人間に飼い慣わされたネコは獲物をもてあそぶことがあるという。前記のA氏を飼いネコと同等と見るのは酷であろうか。
 そういえばプロの競技者にも同等のことを見かけることがある。勝ちが決まるほど点差が開いてしまうと、相手にボールを渡さないように競技時間が終了するのを流してまつ。これなども対戦相手に失礼な話である。
  囲碁を打っているときに、昔の格言を適宜言う方がいる。例えば、一見上手そうな手を打つと、「その手は桑名の焼蛤」、とか「切ったはったは家業じゃないが、売られたケンカは受けるが礼儀」、「傘に隠れてこちらを覗く」等々こんなことはまあ普通のこととして受け流すことができるが、たまたま盤上に落としてしまった石がトラブルになることがある。それは石を落とす前の状態と変わってしまうことがあるからである。そのことはいけないことであるが、乾燥した時期には指先も乾燥していて石が滑ることがある。するとまた石を落として勝とうとしているという。いつもそのことを口に出して嫌みを言う。何回も言われると相手が可哀想になってしまう。
 私は、「追い落とし」とか「打って返し」の技が好きで手筋を駆使してその様に攻めていくことがある。しかし最近ではそのことに気がついて対応する方が増えてきた。それはその方も気をつけるようになった証拠であり、上達したことになる。めでたいことである。それで最近は相手に例の手を警戒させながら厚みと築き自分の地を増やす方法に打ち方を変えた。今年の大会ではそのことにとらわれて思うような成績が上がらなかったが、最近はほぼ70%位の成績を上げることが出来るようになった。
  来年が楽しみである。


身辺整理を始めます(20131120)

2013年11月21日 23時13分44秒 | 日記・エッセイ・コラム

  身辺整理という言葉には、この言葉を使う人によっていろいろな意味があるようです。
 例えば、ある人が結婚することになり今まで付き合ってきた異性との付き合いを終わりにするとか、想い出として残るようなものを処分すると言うことも聞いたことがあります。あるいは定年・退職を迎えたり転職することになって仕事の引き継ぎなどをする。或いは関係書類を整理・廃棄をする。
 身辺整理とは、自分と関わりのあった過去の付き合いや関わりを絶つことであり、身軽になることかも知れません。
 近頃高齢になったからかもしれませんが、友人・先輩達の中に年頭の挨拶を今年で終了しますという年賀状をもらうことが多くなってきました。
 私は数年前から、年賀はがきをいただいた方には返事を差し上げるが、私の方からは特別の方以外には出さないことにしていました。私もそろそろ年賀の挨拶を遠慮するようにしないとと考えています。
 と言うわけで膨大なメデイア(CD、DVD、FD、VHSや8mmテープ、マイクロDVテープ、MD等)、たまった雑誌や書籍、PCの部品、AV機器その他の不要品の廃棄をします。これからは1年以上使用しなかったものを全て廃棄することにしました。中には愛着のあるものもありますが、思い切って廃棄をしようと思います。私にとってはこれが身辺整理になるのかも知れません。


iPad mini その後(20131117)

2013年11月17日 23時09分15秒 | 日記・エッセイ・コラム

 iPad miniはなかなか優れものであり、私のサイドツールとして活躍しそうであった。何故過去形で書いたかというと重大なトラブルが2ヶ月間に2回も発生してしまったからである。どのような状態かというと、お知らせでOSのバージョンアップがありますという案内が出たので指示にしたがった。再起動する画面になり上手くいったと思ったら途中で停止してしまった。その後その状態を維持しておいたが、変化しなかった。1回目は、購入約1ヶ月後に発生した。その際は販売店でサポートしてもらったが、上手くいかなかった。それで自分でマニュアルを見ながらやってみたら上手くいった。2回目は購入2ヶ月後の4日前のことで今度はどうやっても上手くいかない。何が原因か不明なのでアップルケアに問い合わせた。原因は不明のまま、工場出荷状態にしてiKloudからバックアップを復元する方法を教えてくれた。これは初回のトラブルの際に自分でやった方法であった。その後PDFファイルを移動しようとしたが上手くいかなかったのでその方法を聞いたがその状態を理解してもらえなかった。トラブルが続いたことが後継機の発売を急いだのかも知れないなどと勘ぐったりしています。アップルの対応がどうなるか楽しみである。


書斎の整理をしました(20131117)

2013年11月17日 07時49分09秒 | 日記・エッセイ・コラム

 私の書斎は、主としてパソコンを使用して行う執筆のための自作の机と各種AV機器や自作パソコンのための部品、書籍・雑誌、記録媒体などで溢れていました。それを一日がかりで整理し、3年間使用しなかった部品や購入後5年以上経過したAV機器類そして雑誌類や古いFD、CD、DVDなどの記録媒体を廃棄処分しました。

 いざ廃棄するという現実に向かうと、これはまだ必要になるのではないかとか、これはあれが不良になったときに交換部品として残すべきだとか、雑誌や書籍類は全てPDF化したので不要となったはずであるが廃棄してしまうのが何となくもったいないなどと考えてしまう。

 私の妻は、私の物品を自分で判断して捨ててしまうことがある。それはもう思い切った捨て方である。何か私のものに恨みがあるのではないかと感じることがあるほどである。こんなことがあった。私がまだ若い頃に購入した落語全集や勝海舟全集、徳川家康全巻、500冊ほどのSF文庫が、仕事でフィールドに行っている間に消えてしまった。私は仕事が忙しくてそれらを見ることがなかったので当時は気がつかなかった。仕事が一段落して本でも読もうかと思ったら上記の本が一冊もないことに気がついた。妻に聞くと表の物置に入れてあるというので物置の中をくまなく探したがどこにもなかった。

 どうも一度物置に入れて、物置の整理をする段になって捨ててしまったらしい。

 ここで口論になったが、無くなってしまったものは仕方がないので今後私の物品には一切手を触れないことを約束してもらって決着することにした。しかしこの約束は時々守られないことがある。これは一種の文化戦争なのではないかと思う。ものに対する価値観が違うと言うことでこのような仕儀になるのだろうと思うこの頃である。


進歩といえるのかな?(20131111)

2013年11月11日 00時32分02秒 | 日記・エッセイ・コラム

 最近、iMac21.5インチ、iPad mini、iPad2、iPod touch等を手に入れた。それらの操作をある程度できるようになるまでに約1週間かかってしまった。
 上記の機器の優れているところは、どれか一つの取り扱いになれてしまうと、ほとんど全てのことがiMac21.5インチと接続しておくことによって連携してセットアップやヴァージョン・アップ、ソフトのウェアの購入インストール、メール送受信、インターネット接続などが可能なことである。
 しかし、現在の私の習熟度ではiMac21.5をPCとして仕事に使えるまでにいたっていない。それでもiCloudにデータを保存することによって各端末のメモリー使容量を節約することが出来る。それから各種のソフトウェアーが格安なのもよい。しかしそれらがどれほど使用できるかはまだ不明である。Pagesと言うワープロはフォントの種類が少なく物足りない感じがある。20年ほど前のマックPCは不満があるものの役に立っていたのを思い出した。
 iPod touch64Gは大変気に入っている。ミュージックはクラシック曲を約1000曲、書籍は現在200冊ほど入れているがまだまだ余裕がある。iCloudを使用すればそんなに本体メモリーに入れなくてもよいのだが、使用期間と言うことで試している。
 しかし、通勤するわけでも無いので不要と思われるかも知れないが新しいものを見るとそれを使ってみたくなる癖があるので自分で我慢するしか無いだろう。 
 これからも使用方法などでわかったことを報告したいと思います。
 IT関係の進歩はめざましいものがあるが、それに追いつくのが大変である。自分の土俵でアイデア勝負をしてきた私には、IT機器に振り回されるのは止そうと思う近頃なのだが、好奇心を抑えることはなかなか困難である。困ったものである。


何事も表には裏がある?(20131109)

2013年11月09日 21時59分50秒 | 日記・エッセイ・コラム

 筆者の友人(Aさん)の話です。 Aさんは元来争いごとを好まない性質である。それは子供の頃から身体が小さくケンカをしても大概の相手には大略力負けをしてしまうからである。しかし体型と柔和な顔に似合わず芯は太く負けず嫌いなところもある。
 そんなAさんはあるボランテア団体に所属していた。この団体に入って集まってくる方々は、大方60代後半の婦人たちであるという。毎月初めの日曜日午前10時から2時間ほど定例会が開かれるという。そこではその月に行われる活動のあらましが説明される。ボランテア活動に参加する人たちは仲間と毎月数回は顔を合わせるのでいろんなお喋りをすることがある。しかし月に一回だけ定例会にやってくる人たちの中には、久しぶりに会う仲間といろんな話に花が咲き、世話人の説明など全く聞かないで自分たちの話に夢中になっている人たちがいる。世話人が途方に暮れることもしばしばある。
 ある日いつものように会員が集まって世話人の話が始まり、何回か「お静かにお願いします」という注意喚起をしたにもかかわらずお喋りを続けている。Aさんは突然立ち上がりお喋りに夢中になっている人たちの前に立ち黙ってその人達を見ていた。1,2分も経ってから、Aさんがいることに気がつき、不思議なものを見るような目つきで「何かご用ですか」と聞いた。Aさんは「あなた方は何をしにここにいらっしゃったのですか」と尋ねた。お喋りをしていた人たちの何人かがAさんをにらみつけて足音高くその場を去って行ったという。残った人たちは「申し訳ありませんでした」と言って世話人の話を聞いてボランテア活動に熱心に参加するようになったという。
 その集まりに参加していた他の人たちはAさんに感謝の気持ちを表した。Aさんは、「何か勘違いがあったようなので出過ぎたことをしてしまいました」と言った。
 後の噂話で、Aさんはしっかり者だと言うことになっていた。Aさんは自分のことを次のように話していた。
 私は自分でも思うのですが、決してしっかり者でも無く、出しゃばりやでもありません。ただ父がいつも言っていたことを出来るだけ守ろうと思っているだけです。      私が小さいときに父は私を膝に乗せて、
「お前は身体が小さいけれどな、決して卑屈になってはいけないぞ。卑屈というのはお前にはまだ難しいだろうが大きくなったらいつかわかるようになる。いいか、お前は身体と同じ大きさの人間になってはいけない。わかったな」
  私(Aさん)は父の言っていることをその当時は全く理解できなかった。しかし成長するにつれていろんなことを経験し、父の話してくれたことを理解できるようになってきた。そして、今この年になって、父の言っていたことを子供たちに言葉を換えて伝えたいと思うようになりました。
 Aさんははにかむようにこの話を筆者に言ってコーヒーカップを口元に持って行った。


「逝ってしまった姉の想い出」Memory of My sister(20131019)

2013年11月05日 07時50分39秒 | インポート

  10月初めに姉が向こうの世界へ逝ってしまいました。
 今年になって多くの恩師や友人達の逝去の報に接してきました。その方達にはいろいろな意味でお世話になってきました。恩師の方の中には私の生き方に決定的な助言を下さった方もいらっしゃいます。そして友人の方々にも言い表すことが出来ないほどの親切を受けました。改めて感謝の意を申し上げます。
 さて、私の姉は87才になる十数日前に亡くなりました。姉には両親以上にお世話になりました。私が、今多くを望まなければ不自由しない生活が出来ることは姉の様々な援助のお陰と言っても過言ではありません。
  私は末っ子でした、それも直ぐ上の兄とは5才も離れていましたから兄姉喧嘩も出来ませんでした。私が物心ついた頃には兄が4人と姉と私の6人兄姉でした。太平洋戦争中から戦後の混乱期を通して姉は母とともに家族の食料確保に懸命にがんばりました。終戦の翌年春、宮城県の開拓地に行った時には、戦災を逃れ僅かに残った姉の着物を次々と米に代えていきました。年頃の娘だった姉の心中を察して幼心を痛めたものでした。村祭の時にお米に換えた着物を着た村の娘さんが歩いている姿を見て姉は涙を隠して泣いていました。

 私が高校へ進学できるかどうかを決めなければならないとき、姉は東京でM船舶KKという会社に勤めていて東京の様子を知らせてくれました。そしてこれからは学問を身に付けなければいけないと言ってくれました。当時のわが家の経済状態は、毎日の食事には困らないが学校へ行く費用まではとても都合が付かない状態でした。そんな折に姉は私がお金を送ってあげるから高等学校へ行きなさいと励ましてくれました。当時(昭和27年)の姉はどのくらいの給料をもらっていたのか知りませんが(例えば、昭和35年の大学卒の国家公務員の初任給が1万2,3千円程度だったと記憶しています)、東京でアパートを借りて生活していくのは大変だったと思いました。その中から毎月1500円を送ってくれたのです。県立高校の授業料他は月に550円でした。それに教科書や通学代(自転車、冬季には列車通学の定期乗車券代も必要でした。私は、村に一軒あった自転車屋さんで捨てた部品をもらって片腕の店主に教えてもらいながら組み立てた自転車に乗って通学しました)。しかし弁当はいつもカツオの削り節を醤油で味付けをしてご飯の全面にかけたいわゆる猫飯でした。たまに1枚を半分にきった海苔が削り節に変わり弁当の上部に1枚おきその上から醤油をかけたものになりました。級友に”また猫飯か”などと言われたのを思い出しました。おんぼろ自転車に乗って片道18kmを冬根雪になるまで雨の日も強い西風の日も通いました。それでも私は高校へ行けたのでよかったと思います。姉が仕送りをしてくれたから私は県立高校へ通学できたのです。高校卒業が近くになったとき、高校のPTA?がよい教師を招聘するために教員住宅を作るという話が出てきました。卒業生全員が3000円を出し合って5(3?)棟の家を建てるというものでした。これには私はほとほと困りました。ようやく卒業できることになり、これ以上姉に負担をかけることはないと思っていたからです。それで最後まで先生にお金がありませんと言いましたが、体育の先生や他の先生も私を説得にきました。それでとうとう親に相談しました。その結果、最後のお願いと言うことで姉に無心をしてくれました。そのために高校3年生の3学期の成績表には体育のすべての項目で1が並んでいました。今思うと体育がすべて1というのは卒業単位取得に関係なかったのかと疑問に思うことがあります。このことは後々になっても私の夢に出てきました。今風に言うとトラウマになってしまったのかも知れません。
 私は、2月の期末試験が終わると直ぐに上京して受験の日まで国分寺市に家を買って住んでいた姉夫婦の家にお世話になりました。受験は失敗しましたが、1年浪人して翌年は東京の公立大学に入ることが出来ました。その後もいろいろ相談に乗ってもらいました。姉は優しい夫に出会うことが出来、親思いの2人の子供に恵まれ幸せな生涯を送ったと思います。お姉さん、ありがとうございました。安らかにお休み下さい。


異次元からの便り?(Touch from another dimensional world?(20131105))

2013年11月05日 07時34分26秒 | インポート

 先日姉が他界し49日の法要も済みました。姉の夫は脊椎圧迫骨折と言うことで姉のいた施設に入所しているのですが、その義兄が次のような話をしていました。
 寝ているときだけで無く覚醒しているときにも、自分の周りに姉がいてうるさくいろいろ世話を焼いているような感じがする。こういう話はいろんな人たちからよく聞くことである。
 私自身も似たような経験があった。20才になる前に急死した(妻の)弟とは5,6回くらいしか会ったことが無かったのだが、妻の実家に行くと戸を開けていらっしゃいと言って出てくるような錯覚を受けることがあった。また妻の祖母には私は大変かわいがっていただいたが、やはり妻の実家に行くと夕方畑からひょっこり帰ってきたような錯覚に落ちることがあった。これは決して宗教的な話では無く、むしろ心理学的な問題かあるいは一種の習慣によるものなのかも知れない。
 義兄は、話し好きで子供たちの自慢話を(当時=昔)辟易するほど聞かされたことがあった。姉のことも「○○さんはね、こんな言い方をするんですよ」などと話してくれた。義兄にとっては姉の言い回しや動作がとても気に入っており、それが嬉しくてしょうが無かったのだと思う。義兄は、姉のことを深く愛していたのだろうと思うし、姉も義兄を非常に頼りにしていたのだろうと思う。それでその習慣がまだ残っており、こんな場合にはこうしてくれたなどと思うことが現実感として感じるのだろうと思う。
 ところでこの話を読んで下さっている方の中にこんな経験をしたことが無いだろうか。
 私は、時々誰かに肩の辺の衣服を引っ張られることがある(と感じることがある)。驚いて後ろを振り向くが誰もいない。それは一人で車を運転しているときであったり、がら空きの電車の中だったりする。SF的には面白いと思うのだが、もしかすると異次元の世界の生き物(人間?)が私にコンタクトしてきたのかも知れないと思ったりする。前にも書いたが、有料道路を走っているときに何気なくスピードを落とすとすぐ後ろに覆面パトカーがついていたりすることがあった。そんな時には何かが警告してくれたような気がするのであった。こんなようなことは1,2回というのでは無くかなり頻繁に経験したことである。


異次元からの便り?(20131104)

2013年11月04日 00時34分21秒 | 日記・エッセイ・コラム

 先日姉が他界し49日の法要も済みました。姉の夫は脊椎圧迫骨折と言うことで姉のいた施設に入所しているのですが、その義兄が次のような話をしていました。
 寝ているときだけで無く覚醒しているときにも、自分の周りに姉がいてうるさくいろいろ世話を焼いているような感じがする。こういう話はいろんな人たちからよく聞くことである。
 私自身も似たような経験があった。20才になる前に急死した(妻の)弟とは5,6回くらいしか会ったことが無かったのだが、妻の実家に行くと戸を開けていらっしゃいと言って出てくるような錯覚を受けることがあった。また妻の祖母には私は大変かわいがっていただいたが、やはり妻の実家に行くと夕方畑からひょっこり帰ってきたような錯覚に落ちることがあった。これは決して宗教的な話では無く、むしろ心理学的な問題かあるいは一種の習慣によるものなのかも知れない。
 義兄は、話し好きで子供たちの自慢話を(当時=昔)辟易するほど聞かされたことがあった。姉のことも「○○さんはね、こんな言い方をするんですよ」などと話してくれた。義兄にとっては姉の言い回しや動作がとても気に入っており、それが嬉しくてしょうが無かったのだと思う。義兄は、姉のことを深く愛していたのだろうと思うし、姉も義兄を非常に頼りにしていたのだろうと思う。それでその習慣がまだ残っており、こんな場合にはこうしてくれたなどと思うことが現実感として感じるのだろうと思う。
 ところでこの話を読んで下さっている方の中にこんな経験をしたことが無いだろうか。
 私は、時々誰かに肩の辺の衣服を引っ張られることがある(と感じることがある)。驚いて後ろを振り向くが誰もいない。それは一人で車を運転しているときであったり、がら空きの電車の中だったりする。SF的には面白いと思うのだが、もしかすると異次元の世界の生き物(人間?)が私にコンタクトしてきたのかも知れないと思ったりする。前にも書いたが、有料道路を走っているときに何気なくスピードを落とすとすぐ後ろに覆面パトカーがついていたりすることがあった。そんな時には何かが警告してくれたような気がするのであった。こんなようなことは1,2回というのでは無くかなり頻繁に経験したことである。
  よく巷では、”虫の知らせ”と言うことがあるという。これも同じような現象なのかも知れない。ある人(或いは、事柄)のことを気にかけていると、その人が頭の中に思い出される。すると間もなくその人に異変が生じたという報せが届く。と言う具合である。昔の人は、出がけに履き物の鼻緒が切れたり、何かが割れたりすると虫の知らせだと行って外出を控えたり、別の順路に換えたりすることがあったという。これは何かが将来の危険を知らせるといった話になる。それで、当事者はその危険を回避するために注意を怠らないようにする。それで何事も起こらなければめでたしめでたしと言うことになる。
 科学が進み、人間の脳内のことが少しずつ明らかになってきたとはいえまだまだ不思議な話が世の中には沢山あるような気がする。