寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

地上は桜が満開、地下ではモグラが活動中です

2015年03月31日 07時20分00秒 | 日記・エッセイ・コラム

     

 昨日、わが家の近くにある峠公園の桜が満開になりました。2日前にはちらほら咲きだったのにこの暖かさに春が爆発しました。

     

 桜の花の間から下弦の月が見えました。 花は木の幹からもでていました。

 わが家に庭ではこの頃モグラの活動が盛んになっています。小さな庭ですが芝生のあちこちで土を盛り上げています。

    

 庭からはみ出した蕗が土の道を埋め始めました。この蕗はもう少しすると40cmほどの大きさになり遠くの方から取りに来ます。

 庭のスズランも咲き始めました。ほんの6mmほどの大きさですがその可憐な花は心を癒やしてくれます。

 冬の間は隙間の間からその向こうが見えた、梢の枝の芽も小さな葉になりました。      

 自然界では生命が一斉に活動しはじめました。

 

   


さらばアルハンブラ宮殿 再びパリへ

2015年03月30日 09時25分39秒 | 旅行記

 グラナダ滞在最後の日、アルハンブラ宮殿に別れを告げてパリへ向かうことにしました。何故パリかというと航空機の発着便がパリになっていたからです。
 初めはグラナダから鉄道を乗り継いでマドリードへ行くことにしていたのですが、時間に余裕があったのでバスに乗ってゆっくりと景色を見ながらLINARESーBAEZAへ行きそこからマドリード行きの列車に乗ることにしました。
 バスはよく晴れた中を山越え川越えてある地方のバスターミナル駅に着きました。うかつにもそこがLINARESと思ったのですが何か違う雰囲気なのでバスの運転手や歩いている人に聞いてまわったのですが全く言葉が通じません本を持っていた学生風の人にも聞いたのですが言葉が全く通じないので困ってしまいました。ウロウロしていると、1人の男性が近づいてきて"どこへ行きたいのだ”という風に身振りで示してくれました。私のスペイン語は全く通じないので地図を出してここへ行きたいと示すと男性は私もそちらの方へ行くので一緒にこのバスに乗ろうといって案内してくれました。その町はBailenという名の町だそうで、そこからLINARESという大きな市へ行きそこでバスを乗り換えて件の駅へ行くと言うことでした。

このバスに乗ってLINARESにつきました。マラガからグラナダへ行くときに乗ったのもこんなバスでした。

 LINARES市までは1時間ほども掛かったように思いました。列車の発車時刻もあり、バスに乗ると知らない町だったので長く時間が掛かったのかと思ったのですが実際にはもっと短かったかもしれません。LINARESについてそのままバスに乗っていましたが、ここで乗り換えると言うことを思い出してLINARES-BAEZA行きのバスに乗り換えました。そうして駅に到着したのは列車到着20分ほど前でした。危うく乗り遅れるところだったのです。見知らぬ旅行者に親切に案内して下さった男性に感謝します。

RENFE というのは鉄道という意味ですね。

駅は多くの場合平屋になっています。ホームは段差のない造りがほとんどでした。

列車の編成を書いてありました。

 列車に乗り数時間して無事マドリードにつきました。マドリードにはまだ見たいところが沢山あったのですが、名残惜しくもパリ行きの寝台車に乗り換えました。列車が発車すると車掌がきてパスポートを預かるといって持って行ってしまいました。
 夕食は食堂車でとりました。食事はスペインワインを飲みながらゆっくり寛ぐことが出来ました。
 その日はとんだハプニングがあったのですが、それもまた旅の楽しみかもしれませんね。
 
 


花粉 杉からヒノキへ

2015年03月27日 17時01分01秒 | 日記・エッセイ・コラム

 花粉症の人にとってこの10日ほど少し楽になったようです。というのは杉花の粉が少なくなったからです。次の写真のように結実したからです。しかし24日頃からヒノキの花粉が飛び始めました。

 ヒノキの花粉は鼻の奥の方でツンと強い刺激がきます。下の写真のように杉の花とは全く形が違い粟粒のような花が房状になっているのが見えます。ヒノキの花の開花している期間は杉よりも短いようですし木の数が少ないこともあって2週間ほどで終了します。

 ヒノキが花粉を飛ばさなくなると続いて松の木の花が咲き始めます。しかし今年は今の予想では4月の半ばには花粉症の記事が終了すると私なりの予想しています。昨年あたりからアメリカ製の「クリスタルヴェール」という鼻の周囲に付けると効果のある軟膏が売り出されて楽になりました。

 

 

 


孫に教えられる

2015年03月20日 17時30分03秒 | 日記・エッセイ・コラム

 孫の5才になる女児はわが家に来ると初めに私の部屋へやってくる。そして私の手を引いて仏壇の前に連れて行く。孫は仏壇の前にある小机に乗せてあるLED式のローソク*と同じくLED式の線香*のスイッチを押す。そして鐘を鳴らして手を合わせる。この様子がとっても可愛くてたまらない。私も思わず同じ仕草をしてしまう。この行動は母親とわが家にやってきたときに母親の昇降の様子を見て覚えたのかもしれませんね。
*LED式のローソクと線香(香りは出ない)は私たちが高齢化して日を消し忘れても安全なように昨年から使用はじめたものです。

 孫の気持ちを知ることは出来ないのですが、先祖を敬うと言うことはこのようにして受け継がれていくものなのでしょう。

 孫はその後で私の書斎へやってきて英語の本を貸せとせがむ。そしてホコリ取りの人形を外してその棒を持ち英語の本のページを開き棒でページ面を指してここを読んで下さいという。幼稚園で習っていることを真似したのだろう。昨日来たときにロー字を書いて見せたところ書き順はともかく書き終わった文字はなかなか上手に書いていました。
 孫の年頃から外国語を初めいろんなことをものすごい勢いで吸収していくのだろうと思うといろんなことを見せてあげたいと思う今日この頃です。


東京大空襲が伝えるもの

2015年03月10日 22時40分20秒 | 日記・エッセイ・コラム

 3月10日は私にとって忘れてはいけない特別な日です。70年前の昭和20年3月10日未明数百機のB29の大編隊が東京の下町に大量の油脂型焼夷弾をばらまいた。
 一説によると隅田川の河口から上流の浅草付近までそして東に向かい小松川に沿って河口までの下町周辺部に焼夷弾を落とし、そのあげくその内部に更に大量の焼夷弾を落とした。まるで狩りをするように周囲の逃げ道をふさいでおいて内部を焼き払うという凄まじい殺戮の方法を採った。しかも軍事工場で働いているとはいえ一般市民の居住地域に的を絞ったやり方は人間に対する尊厳を破壊するために実行したとしか思えない。
 その空襲で約100,000人前後の人が犠牲になった。
 私の家は隅田川の西数百メートルの所にあった。空襲による火災で発生した火の粉は、折からの強風にあおられて墨田川を渡り猛吹雪のように隅田川のこちら側まで飛んできた。有馬国民学校へ避難する途中でも防空頭巾や衣服に火の粉が沢山着いてが燻り出すのもかまわず、ひたすら避難路をたどった。火の粉により水天宮の東側の道路まで類焼した。午前3時頃に風向きが変わり(一説では焼夷弾による火災で隅田川の東側には燃焼するものがなくなったので本来の西風に変わったとも言われている)。私たちは焼夷弾攻撃の周辺部の外側だったので直接焼夷弾攻撃を受けなかったが、吹雪のように飛んできた火の粉によって類焼しただけで済んだ。10日の午後火災で無くなったわが家の跡へ行った。有馬国民学校から見た光景は子供心に声も出なかった。焼け跡は水道管の立ち上がり部分とほんの数本と焼け残った電柱が見えるだけで見渡す限り何もなかった。
 新大橋の上から見た隅田川の川面は惨憺たる光景であった。川の水面は隙間がないほどの沢山の溺死者で埋め尽くされていた。
 翌日再びわが家の焼け跡を見に行った折浜町公園を見に行った。近くの大きな劇場から運び出された焼死者で浜町公園の地面は埋め尽くされていた。私と姉そして母の3人もあの人達の中に入っていたかもしれなかったのだと思うとゾッとした。というのは突然の空襲のために、その劇場へ避難することになっていた私たちは渦巻く火災で道を塞がれ避難するどころではなかったのだ。それが幸いして焼死することはなかった。
 父が言っていた"この様子を見ておけ、これが戦争だ"という言葉の深い意味が今でも私の心の中にどっしりと重く残っている。
 世界から戦争を無くし社会から殺人という行為を無くすようにしたいと思う。1人の力は微々たるものですが大勢の人が協力して大きな力にしていこうではありませんか。


エアコンを買い換えました

2015年03月10日 19時10分31秒 | 日記・エッセイ・コラム
 私の仕事場は6畳の部屋です。その部屋のエアコンを20数年使ってきましたが、ついに異常動作をするようになったために買い換えようと思って価格の下がるのを待っていました。そろそろと思って、昨日ネットで検索しました。価格.COM, Yデンキ、Nデンキ、Kデンキ、Sストアー(3月になったら価格を下げると言っていて8日に下げました)、のうち価格.COMはかなり安くなっていましたが、やはり遠い地方の電気店が多くメンテナンス等の心配があり外しました。他の4店に問い合わせたところ、Kデンキが最も安く、古いエアコンの取り外し、リサイクル代、運送費、税別で本体価格74,800円(取り付け工事費込み)にしてくれると言うことでここに決めました。他の店ではもう展示品限りかそれも無いという店もありました。
 本日店へ行って支払いをする段になって、キャンペーン価格で全て込み込み(リサイクル費・運搬費その税金2,160円だけは支払い)で\76,900にしてくれました。金曜日に取り外し取り付け工事をしてくれることになりました。これで花粉も除去できると言うことなので私としては助かります。
 ちなみに機種はCS-EX224CWといタイプです。

アサリの砂出し

2015年03月09日 13時41分18秒 | 男の手料理といえるかな?
この頃わが家の味噌汁の具に貝類を使用することが多くなった。
昨日も本日夕食時にアサリ汁を作ろうと思ってアサリを買ってきた。
一昼夜砂出しをしてから使うようにと母から教えて貰っていたので
約3%の塩水をつくって中に入れておいた。金属製のボールに入れて
おいたときは水管を出さなかったので、プラ製の浅い器に入れ替え
たところ間もなく水管をだした。全部のアサリが水管を出したので
全部生きていることが確認された。器を少し振ってみると慌てて水
管を引っ込めるものや、いつまでも出している貝もいて面白かった。
塩水は3回交換したがほんの少ししか砂を出していなかった。
貝殻の模様も同じものがないようでキレイだった。

アルハンブラ宮殿(2)

2015年03月06日 09時29分05秒 | 旅行記
 アルハンブラ宮殿は長い歴史の中でいろんな民族の影響を受けてきました。そのために建物の中にその民族の影響が見られるとグラナダの書店で購入した書物に書いてありました。その書籍を読んで、私は建物の装飾が統一されていないのはどうしてなのだろうかという疑問が少し理解できました。
 
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 私が宮殿の庭をゆっくり歩いていると、マラガの学会で一緒だった人達が駆け足でやってきました。学会のアフターツアーに参加したのだけれども、ここは30分間くらいしか時間がないと言うことでした。

    
       
 アルハンブラ宮殿は小高い丘の上に築かれた城塞の様相を見せていますが、中には水をふんだんに使った美しい庭園があり、協会やホテルもありました。ゆっくり1日をかけて見て回ったアルハンブラ宮殿に夕日が映えるようになって宮殿を話kぁれおしみながら後にしました。
 明日はグラナダからRENFEという駅へ出てそこからや交信台車に乗って再びパリへ向かいます。

今夜の夕食のおかずは子持ちカレイの煮付け(20150303)

2015年03月03日 21時49分34秒 | 男の手料理といえるかな?
 食事は私が毎日用意することになっています。これから時々料理したというほどでもないのですが、自慢話として記事にしていこうと思います。退職してしばらくしてから食事は私が作るようになってしまいました。食事を作り始めてもう5年になります。もちろん後始末も私が全部やります。洗い物はどっちかと言えば得意分野ですから嫌だと思ったことはありません。是までにも何回か記事にしたことがあります。前と同じように”男の手料理といえるかな?”というタイトルを付けました。
 今日の夕食は子持ちカレイの煮付けを作りました。カレイはアメリカ産の中型のを買ってきました。表面をよく洗って三切れに切りました。
 平たい鍋に水1.5カップ、日本酒0.5カップ、しょう油大さじ5杯、みりん大さじ5杯、砂糖大さじ山盛り3杯を入れて、細切りにしたショウガを10~15g加えます。これにカレイを入れて強火で煮立たせます。途中アクが出たら掬い取り捨てます。ときどきお玉で煮汁をカレイの上からかけてやります。中が見えるようにガラスのふたをして中火にして約15分ほど煮込みます。時間が過ぎたら細切りにしたネギを入れて煮立たせます。これで出来上がりです。
(私は腹身よりも尾部が好きなので子持ちが写っていません)
 副菜はモヤシとしらたきを少量の油で炒め、しょう油と砂糖を適量加えて最後に卵とじ風にしました。
 写真のように盛りつけをして副菜とシジミの味噌汁、トマトジュース、めし80g、それと香の物を少々加えて準備が出来ました。簡単な計算では約480Kcalほどになりました。
 味は家庭料理としてはまあまあでした。