寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

趣味・囲碁の魅力

2010年12月27日 01時05分58秒 | 日記・エッセイ・コラム

趣味、囲碁の魅力
 筆者は、75歳近くになっが、囲碁は面白い。今、筆者は3段ということが認知されている。今日は町の囲碁愛好会の納会があった。納会ではプロ棋士が指導後を打って下さった。希望者3人を相手(アマ6段(3子)、4段(5子)、2段(7子)という手合割り)に碁を打ち、終了後検討指導を行って下さった。本日はアマ3敗で、これまで連敗記録を14に伸ばしたということであった。プロとアマの違いは歴然であり、これも自然のことだろう。でも悔しいとは思う。その後、会員同士でいつものように碁を打った。
  碁を打つとその人の性格が出るといわれるが、かなり的を得た表現のようだ。普段話をしていると穏やかで好ましい性格と思っていた人が、いざ囲碁を打つと非常に好戦的な性格をむき出しにする。もちろん逆の場合があるし、普段の性格そのままの方もいる。筆者の場合はどうであろうか。自分ではおとなしい碁を打っていると思うのであるが、相手はそう思っていないようである。激しい攻めを仕掛けうまくいくと2目は強いのではないかという。しかし、攻めに集中する余り自分の石の弱点を忘れてしまうことがある。そして逆転を許してしまう。最近では土曜日、日曜日と週のうち2日は碁を打つことがある。そのためか時間をかけて打つようになり逆転される割合は少なくなったと思う。
 アマの筆者が言うと何とも恐れ多いが、囲碁というのは単純な道具を使用するゲームあるが、奥の深いゲームでもある。落語に笠碁という演題がある。これは大家と店子という関係にある登場人物2人が、無類の囲碁好きでいろんな機会を作っては打ち碁にいそしむ。しかし、時々打った手を待ていやダメだということが始まり、もうおまえなどとは碁を打たぬという程の口論になる。しばらくの間は口も聞かない状態が続くが、そのうちに、今日はくるだろう、あいつがそんなに囲碁を打たないでいられるはずがない。と思っていると相手の方も同じ状態で今日は誘いの使いが来るだろうなどと気をもんでいる。こんな状態がしばらく続き、何となくまた打ち碁をするようになる。落語の中ではもっと修飾されているが、碁敵というのはこんなものである。これもまた趣味の面白い所でもある。
 また何のゲームでもありがちなことだが、いつも負けている碁敵にたまに勝つと、そのことだけが頭の中に残ってしまう。他の仲間と碁の話が弾んでいるときに、その勝ったときの話だけが中心になる。何回も負けているのにたった1回勝ったことがそれほど印象に残るのである。筆者も何回やっても勝てない相手がいた。あるとき、隣で打っていた高段者の方が、筆者の打った一手をみて、その手があなたを1目強くしますよとほめてくれた。そのとき以来打ち碁の内容が変化したと自分でも分かるようになり、天敵のような相手に連勝するようになった。ひょんなことがきっかけになって打つ碁の内容が全く変わったように感じる。おもしろいものである。
 囲碁は、通常は相手と2人で行うものであるが、自分だけでも打つことが出来る。それはプロの棋譜を並べてみるのである。あるとき先輩の原田氏(アマ棋戦で活躍している)が、総譜(初手から終局までの手順を1枚の譜面に書いたもの)を1時間で並べることが出来たらアマの高段者(多分5段)になれるといったのを覚えている。新聞などでは10cm角程のスペースに1から250手くらいまでの打ち碁の順序が書かれている。いっぱい書いてあるので次々と順序を追うのはかなり大変である。しかし、慣れてくるとプロの碁はミスを少なくし、先の先まで読んで打つので、そこにはある必然性がある。それが分かるようになれば強くなるということであろう。残念ながら筆者はその域に到達できる可能性は少ないらしい。でも諦めないで上達目指そうと思う。
 新年は9日の日曜日が打ち初めになる。楽しみである。


私たちに理解できる政治を

2010年12月16日 15時11分29秒 | 日記・エッセイ・コラム

 私たちが知りうる政治の話は、主として新聞、TV、などの報道がもとになっている。このところ話題の中心になっていることは、政権政党である民主党の内部のごたごたである。私は長い間続いてきた自民党政治にげんなりしていたので、民主党に変わって、きっと日本は良くなっていくのではないかと大きな期待を持った。しかし民主党の初代首相になった方は、世の中のことについてよく知らないようであった。それもそのはずで、あの年齢になって親がかりの生活をしていたらしい。結局それが元で退陣することになってしまった。変わった二代目は、市川房枝女史の薫陶を受けた菅氏になった。菅首相は、市川氏の教えを実践に生かしてくれるものと思っていたが、なかなかすっきりした行動を起こさない。そのため私のいらつきは募るばかりでなかなか消えない。その原因は何だろうか。よく考えてみると、そこにはやはり民主党内の有力者の「金」に関わるいやな臭いがするような気がする。この疑惑をはっきりさせず今のままでは将来を期待して民主党に投票した国民は完全に離れてしまうだろう。いや既に支持率20数%に低下してしまったという。政治家の思考がどうなっているのかわからないが、国民の多くが疑惑を持ち、せっかく勝ち取った政権政党を苦境に追い込み、さらに国民の生活に必要な予算編成・成立に重大な影響を与える状態にしてしまうことと、特定の政治家が自我を通して何ら説明をしないことを、私たちはどんな天秤にかければよいのだろうか?

 国際的にも日本を取り巻く状況は、非常に厳しい状態であるにもかかわらず、与党も野党もそんなことにお構いなしに、日本国の利益を放り出してしまう。そんな政治家はもう必要ない。真摯に日本国の権益を守り、関係外国に正当な主張をし、国民の生活を守る政治家の輩出が望まれる。


教育について(1)

2010年12月03日 23時58分09秒 | 日記・エッセイ・コラム

 最近、いわゆるイジメを受けたということが原因で自殺する子供のことが報じられることが目につく。筆者の子供の頃にもイジメらしいことはしばしばあった。イジメという言葉はその頃にはなかったが、現象としては同じであった。しかし、どんなに激しいイジメにあっても死ぬと言う考えには至らなかった。周囲の子達から疎外されて共有時間を持てなくとも、その時間を読書に当てたり、植物や星、丁度礼文島で皆既日食があったので日食はどうして起きるのだろうかなどいろんなことを考えることに使って過ごすことが出来た。そういうことは先生や親などが教えてくれたことではない。そしてその結果、沢山の知識を得ることが出来た。もちろん筆者は特別な才能の持ち主ではないし、毎日が生きることで精一杯の生活状態であったことは日本中の同世代の子供達と何ら変わらないと思う。筆者は、いつの間にか年を重ねるごとに自分のことは自分の力で周辺の状態を変えて行かなくてはならないと思うようになった。しかし、今の子供達は何かが起こっても、いつも親や周囲の人たちが何らかの援助の手を差しのべてくれると思うような育ち方をしてしまったのかもしれない。そして自分では何も出来ないのだと思い込んでいるのかもしれない。もしそうだとしたら、そういう状況を作ってしまった大人である筆者達の責任は重い。これは本当の意味で社会状況を改善しなければならないことであろう。例えば教育について考えると、社会の変化によってころころ変わる教育行政を筋の通ったものにしなければならないであろう。

 ここで教育について考える。もちろん筆者個人の考えであるから、筆者と異なる意見を持っている人がいてもおかしくないし、そんな人がいることの方が当然ともいえる。                       

 はじめに、「教育とは過去に蓄積されてきた知的財産を配分することである。知的財産を配分する所を学校という。」と定義する。

 知的財産の配分であるから、すべての人に均等に行きわたらなければならない。これは日本国民については、日本国憲法で保障されている。もちろん現在知られているすべての知的財産を配分すると言っているのではない。それは義務教育9年間で、個人が生活していくために必要な知識、技術、芸術などの基本的な部分について学校で教育という形で実施されている。

 より高度の知的財産の配分に預かるためには、配分を受けるものがそれ相当の努力をして上級の教育機関に進まなければならない。上級の教育機関では教えられるということはなく、自ら学習し研究していくことになる。したがって、上級の教育機関に進むためには、かなりの努力とある程度の資質が必要になる。現在の日本の状況は、大学への進学率はかなり高い割合である。しかし、昨今話題になっているように大学卒業後就職して社会貢献をする機会が得られない人たちが多数いるという。そのために、大学3年生になると早くも就職活動をするようになる。いちばん学習に目的を持って望む時期にそれ以外のことに全力を注がなければならないのは学生にとって不幸であるとともに日本という国にとっても大きな損失になるのではないだろうか。

   しかし、もし筆者が企業人であったとしたら、まともに勉強をしてこなかった学生を自分の会社へ入れることには少なからず疑問をもつであろう。2005年くらいまでは、4年生になってから就職活動をして、遅くも7月中にはゼミ所属の学生の全員が内定を手にしていた。その理由を考えると、3年生のゼミではある事象に関してそれが起こった原因、当時の時代背景、それが社会にどんな影響を与えたかなどについて調査し、分析し得られた結果についてまとめ、全員の前でコンピュータを使って報告をする。報告は約1時間ほどに及ぶが、紙に書いた原稿を読むことなく(国会討論をTVで見ると首相を初め多くの大臣が原稿を読んでいるように見えるけれども少し情けないと思う)、画面上で説明をする。報告の後で全員で議論をする。議論ではどんなに過激なことも中傷でない限り許される。質問に答えられないときはみんなで回答を探す。発表者は回答が見つからなかった場合は、次回までに調査をして報告する。このような発表は、年間5~6回行うチャンスがある。こうして、調査法、発表技術、議論の仕方そして挨拶の仕方について学ぶことになる。その付随する効果は、言葉遣い、国語力、EXCEL、WORD、POWER POINTなどのコンピュータ使用スキルの向上、などにつながる。さらに筆者のゼミでは、パソコンを組み立てる実習、ホームページ作成、アルバム作りなども行った。学園祭には、お客さんの写真を写して、額縁付けやカレンダーに取り込む、その他PhotoShopを使った加工も行い大変喜ばれた。

 大学3年生は、このように自分を磨く非常に大切な時期である。筆者が企業人であれば、このような経験をしてきた学生を優先的に入社させるであろう。

 報道によると政府は、大学卒業後3年間を新卒扱いにするなどの案を考えているようであるが、その意味はどこにあるのだろうか。筆者は、そんなことをすることに疑問がある。日本の将来を考えるならば、就職活動は大学4年生になるまで禁止し、3年生までは勉学に励むようにする方が良いと考える。学生も大学3年間は、自分の将来を考えて自分の付加価値を増加させる。企業も3年生までの学生の就職活動に応じないことにする。以上筆者の独断と偏見に基づいた意見を述べた。