寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

その日から 子どもの戦争・戦後体験記(14)

2015年01月30日 11時41分54秒 | 日記・エッセイ・コラム
 母さんと僕は、昨日隣のおばあさんといったときよりも早く学校へ着いた。門のところにいた門番の人に職員室はどこですかとたずねた。門番の人は、自ら僕たちを職員室へ案内してくれた。母さんは門番さんに丁寧にお礼をいつて職員室の引き戸を開けながら、
「ごめんください。私は寺田正夫の母でございます。日本橋の墨西国民学校でいただいた六男の正夫の転校届けを持って参りました。どなたに転校手続きをお願いしたらよろしいでしょうか」
といった。すると職員室の真ん中程から、
「は―い、こちらへどうぞ」
といいながら年配の男の先生が立ち上がった。母さんは僕をつれて、その先生の方へ行った。
「寺田と申します。この子は正夫といいます。この度、三月十日の空襲で被災したので、高坂へ引っ越してきました。それでこの子をこちらの学校へ入れていただけるようお願いに参りました。これが転校届けでございます」
といって書類の入っている封筒をその先生に渡した。
「さようでございましたか。それは大変でしたね。私が担任の清水です。墨西国民学校の方から連絡を受けています。書類をお預かりします。彼が正夫君ですね。お早う正夫君。今度、担任になる清水です。三月十日は大変だったね」
「お早うございます。清水先生、寺田正夫です。よろしくお願いします」
「お母さんは、もうお帰りになつて結構ですよ。正夫君を確かにお預かりしました。学校のことは私どもにお任せ下さい」
「ありがとうございます。それではこれで失礼します。正夫のことをよろしくお願いします。正夫、先生のいうことをしつかり聞くんですよ。校長先生にもご挨拶をしたいのですが」
「あいにく本日は校長と教頭は他出しておりまして不在です。私の方からお伝えしておきます」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
といって母さんは帰っていった。
僕は少し不安になったが、清水先生について教室へ向かった。教室に入ると生徒は六十人くらいいた。これから一緒に勉強する二年生が一斉に僕の方へ顔を向けた。級長と思われる子が素早く立って、
「起立―」
と声をかけた。教室の中にいた子たちはガタゴトと腰掛けを後ろへ押して起立した。清水先生が教段にあがると級長がまた、
「礼」
と声をかけた。教室中の子たちが揃って、
「お早うございます」
といった。清水先生は
「お早う。今日は新しい友だちを紹介する。その前に級長、みんなを着席させなさい」
といった
「着席」
といって級長も着席した。
「本日、日本橋区立墨西国民学校から転校してきた寺田正夫君です。今日から皆と一緒に勉強することになつた。寺田正夫君は、三月十日の空襲で罹災して、高坂へ引っ越してきた。そういうわけで勉強道具などで不自由しているかもしれないので、皆で支えてくれるように先生からもお願いする。正夫、挨拶をしなさい」
「はい、僕は日本橋貝殻町というところに住んでいました。清水先生がおつしやつたように三月十日の空襲で家を焼かれ、元町に住んでいる従兄の家へ避難していましたが、昨日高坂へ引っ越してきました。今日から皆さんと一緒に勉強することになりました。よろしくお願いします」
と少し長くなつてしまつたがみんなに挨拶をした。
 教室中のみんなは日々に何かいい出したが、話していることを理解できなかつた。今まで聞いたり話したりしていたいい方と少し違うように感じた。しかし、みんなは都会からきた子というので、好奇心いっぱいの目で僕を見ていた。すると級長が、
「今日は仲間が一人増えて、僕たちもうれしく思います。一緒にがんばつて勉強していこう。何か不足のものがあったらいつてください。できるだけ助け合いましょう」
といつてくれた。これで僕の転校手続きはすべて終わりになった。
「正夫、教科書を持ってきているね」
と先生が気遣うように僕に聞いた。
「はい、先生。勉強道具は全部しっかり背中に背負ってきました」
こうして、僕は高坂国民学校で勉強することになった。
教科書は、学校が変わっても同じだった。それは国定教科書だったからだ。
初めのうちは言葉遣いに少し感じが違うなと思ったけど、そのうちに慣れてきた。二年生の仲間は、農家の子が多くいるようだった。そのために勉強が終わるとさっとみんな家へ帰ってしまうのだった。
 こうして三月二十五日の終業式まで高坂での生活は無事に過ぎた。
兄や姉たちは、毎日電車に乗って東京へ通勤していた。そんな中にも日本のあっちこっちに米軍の空襲や艦砲射撃が続いていた。
 僕の家族と脇田さんが元町から高坂へ引っ越してきた後に元町付近が空襲で罹災したと脇田さんが弟から連絡があったといっていた。また吉住町の荷物を預けた倉庫も空襲で焼けてしまったという。戦争は一段と緊迫した状態になってきたなと父さんが報道を聞きながら話していた。
 父さんは、いろいろな種や苗を隣のおばあさんにもらつてきて畑に播いたり植えたりして過ごしていた。そんなある日、二番目の隆兄に召集令状がきた。それは赤い葉書だった。葉書のウラ面には、昭和二十年三月三十一日十五時までに九州の福岡県にある航空隊基地に入隊することと書いてあると父さんがいった。
 母さんにはまた一つの心配事ができたようだつた。でも母さんは何もいわなかつた。
 僕は召集令状というのは、隆兄さんが兵隊さんになるのだということだけは理解していた。それが、本当はどんなことなのかよく分からなかつた。その日の夕飯は、どこから買ってきたのか分からないけど、母さんと脇田さんで赤飯を作ってくれた。これは母さんの心づくしだった。おかずは鰯の九焼きだった。勤めから帰ってきた兄姉はびっくりしていた。
「母さん今=はどうしたんですか、すごいご馳走ね」
と、まず姉さんがいった。兄たちは、うなずいていた。
「今日のお昼頃に隆に召集令状がきたんですよ。それで隣のおばあさんに話したら、小豆と餅米を分けてくれたの。鰯はやはりおばあさんが知り合いの魚屋さんに口を利いてくれたのよ。そうしたらちょうど鰯が入ったというので分けてもらつてきたのよ。隣のおばあさんにはずいぶんお世話になったわね。お前たちも会ったらきちんと挨拶するのですよ」
と、母さんは隣の家の方へ向いて頭を下げた。僕たちも同じようにした。
「さあ、みんなでご馳走を食べよう」
と、父さんがいったので、みんなは赤飯を食べ始めた。
「九州の福岡県って、遠いんだろうな。どんな所なんだろう。どんなところなの隆兄さん」
と、僕は隆兄さんにきいた。
「俺も初めて聞いたんで全く分からないよ」
「正夫は知っているかどうか分からないが 糞尿譚という小説を書いた火野葦
平っていう人の生まれたところが福岡県の若松といったと思うが」
と、父さんが教えてくれた。
「糞尿諄″なら俺も知っている」
と、幸夫兄さんがいった。
昔、菅原道実という人が、京都から九州の太宰府というところへ島流にされたところも近くにあると父さんがいった。みんなの間で話が弾んできた。母さんは静かに微笑みながらみんなの話を聞いていた。こうしてその日は久しぶりに笑いのある夜になつた。
隆兄さんは三月二十人日に出征していった。母さんは、東京駅まで見送りに行った。

地中海を見にマラガへ(マラガに到着)

2015年01月29日 17時22分11秒 | 旅行記
 まだまだ見たいところが沢山あるマドリードに別れを告げて再び列車に乗った。

 マドリードからマラガへ行く旅はほぼ1日かかった。地図を見るとマドリードから南に行き次に西に向かう。ゴルドバに着いたら再び南に下るとマラガに着く。
 窓から見える風景はよく手入れのされたブドウやオリーブの畑がどこまでも続いていた。
 
 

 途中数カ所停車した駅である。乗降客は数人であった。

 ゴルドバに着く少し前に、近くにいた見知らぬ人が写真を写している私にもうすぐ谷が見えてくる。そこがこの付近で一番美しいところだから是非写真を撮って欲しいと教えてくれた。なるほど其の付近だけ他の平地と違う景観を見せていた。

 


 朝早く列車に乗り、マラガに夕方星が見える頃にマラガに到着した。トレモリノスと言うところのホテルへ行くのだがどう行ったらよいか分からなくて駅改札口付近でウロウロしていたら1人の男性が地図を書いて行き方を教えてくれた。お礼に3色ボールペンを上げたらとても喜んでくれた。教えてくれたようにバスに乗りトレモリノスバス停でバスから降りたら目的のホテルの真ん前だった。Melia Costa del Sol ホテルについた。

 この写真は数年前改装後のものである。私が宿泊した時のホテルの写真は次回紹介する。

世界に恥じないイスラム国?人質解放を望む

2015年01月28日 00時16分46秒 | 日記・エッセイ・コラム
 イスラム国?に拘束されたとするジャーナリストの後藤さんの消息が明確なっていない。日本国民を始め多くの人たちが速やかに解放されることを願ってやまないことは一致しているだろう。
 最近の報道を見て日本国のエゴとも考えられることがいろいろ出てきたことに気がついた。人質の代価を2億ドルとして要求してきたが返答期限の72時間を過ぎると、ヨルダンで爆弾テロ(50人以上の死者を出したと言われている)を行って逮捕され死刑が確定している死刑囚と交換するという要求に変わった。もともとその死刑囚は、イスラム国?に拘束されているヨルダンのパイロットと交換する交渉が進んでいるという。更にもう1人の逮捕拘禁されている犯人と併せて2対2の交換をするようなことも検討しているという。
 さて、テロを行った死刑囚を解放することは多くの危惧がある。其の死刑囚は解放された後で再び爆弾テロ要員として利用されるのではないかということである。もしそうなると、更に犠牲者が多数発生する可能性が出てくることである。あるいは其の死刑囚は逮捕されたということの責任を取らされるかもしれない。あるいは英雄として担ぎ上げられ、イスラム国?は死刑囚でも解放させる力があると宣伝するだろう。それによってイスラム国?に参加しようとする人たちが出てくるかもしれない。その人たちの中から更に爆弾テロの実行者が出たとしたら、其の犠牲者の数は更に増大することになる。
 そして日本国の立場はどうなるのだろうか。他国の犯罪者を日本人人質と交換するということを要望しているとは思えないが、もしそのような要望をするとしたらそれは其の国の主権を侵すことになるのではないだろうか。その結果、日本国は自国がよければ他国の主権を平気で踏みにじると言われることになるかもしれない。それでも背に腹は代えられないとするのだろうか。そのために相当額の経済援助を申し出るとしたら何おか言わんやである。
 後藤さんの速やかな解放を望む気持ちは、筆者とて同じである。しかし世界の人たちに恥じない手段で解放させる方法を実行して欲しいものである。

イスラム国?潜入記者の自己責任とは何か

2015年01月22日 10時27分35秒 | 日記・エッセイ・コラム
報道によるとイスラム国?に人質として2人の日本人記者が拘束され、72時間以内に高額の身代金を要求してきたという。 この記者たちは何故最も危険とされている地域に行ったのだろうか。報道の伝えるところによると、イスラム国?に居住している一般人の様子を知りたいという願望に駆られて入国したようである。途中までついて行った案内人の再三にわたる危険であるし生きて帰れないことがあるという忠告を、自己責任で行くと言ったという。
 記者たちのいう自己責任というのはどういうことだろうか。以前読んだ時代小説(小説の題名も作者も失念したが多分作者は司馬遼太郎だったと思う)の中にこんな話があった。上士(上役)が下士(部下)に「其方は武士の覚悟を持っているか」と問うた。下士は「殿の馬前でいつでも死ぬる覚悟があります」とこたえた。上士は「それではこのまま江戸に行き殿にこの書を手ずからお渡しするように」といった。すると下士は「直ちに居宅へ戻り仕度を調えて出立します」とこたえた。「其方は覚悟をどのように心得ているか」と叱った。下士はハタと思い違いをしていたことに気がついて、その場から江戸に向かったという。もちろん家族にも話すこと無くである。
 武士の覚悟というのはこのようなものかと感動したことであった。
 さて、記者がいう「自己責任」というのはどんな内容なのだろうか。危険地域に入るのだから不測の事態に遭っても誰にも迷惑をかけない。と言うことなのだろうか。そしてまた拘束されて身代金を要求されたとしても自分でなんとかすると言うことも考えていたのだろうか。
 しかし事態は自分の思うようにはならないことになっている。莫大な身代金を要求されそれと記者の生命を引き替えたとして、其の身代金によって更にテロ行為が拡大されることを考えたのだろうか。
 記者が拘束されたことで、どれほどの人たちがどれほどの時間と費用を負担しなければならない状態になるかを考えただろうか。
 私は記者の意図したことに無理解では無い。しかし記者のいう自己責任という発言に対して説明を欲しいと思う。そのためにも無事に帰還して欲しいと願っている。

インフルエンザとタミフル

2015年01月15日 10時47分05秒 | 日記・エッセイ・コラム
 鬼の霍乱というのは夏に発生する腸の病気であるというが、私は別の
解釈をしていた。病気など無関係と思われる鬼のような人がある日突然
体調を崩す、それで鬼の霍乱というのだと思っていた。私は在職中40年
間病気で勤めを休んだ経験が無かった。その点丈夫に育ててくれた両親
には今でも感謝している。その私が12日夕刻になると身体がかったるく
て仕様が無く床についた。
 火曜日になると全身の節々が痛くなり体温が38℃を越えてしまった。
直ぐに掛かりつけのクリニックに電話をかけて受診を予約した。しかし
その日は連休の後なので大変混雑していた。それでも出かけて受付に来
院を告げると他の患者に感染しないように別室へ通された。少しして医
師が聴診器による検診をしてインフルエンザの検査をしてくれた。10分
間ほどで検査結果が判明してA 型インフルエンザという診断になった。
今の検査技術のすごさに感心させられた。そして抗ウィルス薬(タミフ
ル)を5日間飲みきって下さいという。つまり自己判断で途中で服用を
止めると耐性を持ってしまうので完全に治るまでに5日間は必要との話
であった。
タミフルというのは副作用で暴れるとかいう話が前にあったが、今はそ
のようなことはほとんど無いという。薬を指定されたとおりに飲み静か
に寝ていた。2日後14日の夕方になると高熱(39.2℃)が37℃台に下が
り身体の痛みが取れてきた。それから無色だった鼻汁が薄黄色に変わり
茶色になった。これもよくなってきた兆候である。ここで服薬を止める
とぶり返しが出たり耐性菌ができたりするのであと2日間は服用を続け
る。
 18日には町長杯という囲碁大会があるのだが仕方なく辞退してしまっ
た。

暖かい日が続くと自然も息づいてきますね

2015年01月13日 08時44分44秒 | 日記・エッセイ・コラム
 2、3日前のことですが納戸の窓を見ると網戸に枯れ葉が
引っかかっていました。それを取り除こうとガラス戸を開い
てよく見ると枯れ葉では無くヤモリでした。ヤモリはもう冬
眠しているはずなのにどうしたのだろうとみていましたが、
全く動かないので凍死してしまったのかと思い棒きれでつつ
いてみました.そうすると少し動いたので生きているのだと
安心しました。網戸を外して外へ逃がしたやりましたが来年
もケケケと鳴いてくれることを期待しました。その後数日し
てローカに5cmほどのヤモリがのろのろと這い回っていまし
た。これも草の中に逃がしてやりました。
 正月3が日が過ぎて暖かい日に庭に出てみました。良い香
りがするのでその源を探しましたら道路側に蝋梅がありそれ
が今年も咲いていたのです。


 ロウのように半透明の黄色い花が沢山咲いていました。
 書斎へ戻ってフト雨戸の方を見るとカマキリの卵(巣?)
がありました。長辺が5cm、短辺が3cmほどの大きさです。

 この中にカマキリは何匹くらい入っているのでしょうか。
続々と出てきたら少し気持ち悪いかもしれませんね。
 鋼板製の雨戸の内側には沢山のカメムシがへばり付いてい
ます。勢いよく雨戸を開け閉てするとカメムシはどこかへ飛
んでいきます。そういえばTV放送でそのカメムシを煎って
食べるというのを見たことがあります。学者の話があって、
エビなどのアレルギーを持っている方は食べない方がよいで
しょうといっていました。画面に映っている人(女性)は特
別な味が無いとか言っていましたがゾッとしませんなー。

マック を食べるの止そうかな

2015年01月07日 11時32分36秒 | 日記・エッセイ・コラム
 はっきりしたことは不明であるが少し前に鶏肉事件があったので中国からタ
イへ製造所を代えたばかりなのに今度はそのタイ?からの輸入ナゲットに異物
が入っていたという。どこでどうして入ったか調査中とのことであるが、TV映
像で見ると衛生管理はよく行われていると思うのだけれどもどうやって異物が
入ったのか不思議である。昨年末にはジャガイモが不足してフライドポテトを
S袋にしなければならないと困っていた。このようなことが3件も続くと、ど
うやら何か魔の手がマックに忍び寄っているとも勘ぐられる。まさかそのよう
なことがあるわけないと思うが1企業で3件も異常が発生するのはどこかがお
かしくなっていることは否定できない。しかし販売員は客に品物を渡すときに
異常に気がつかなかったのだろうか。販売員が袋に入れるところにも製品監視
のカメラを導入することを提案したい。
 もしかしたらマック内部の問題なのかもしれない。とすると企業体質がおか
しくなっているのかもしれない。これは消費者がどうとかこうとかすることが
出来ないことであり、マック愛食者は早く原因を徹底的に究明して再び美味し
いものを提供して欲しいと願っている。

福袋を買ってみたい

2015年01月05日 18時50分44秒 | 日記・エッセイ・コラム
 私は福袋というものを買ったことが無い。TV報道によると
元旦からいろいろな店で福袋を売り出した。前日夜から店の
前に泊まり込んで並んだ人もいた。その中には日本人だけで
無く外国人も沢山いたという。そして元旦当日1人で沢山の
種類の福袋を買っている外国人がたくさんいた。あるデパー
トでは15万個の福袋を用意したという。
 福袋というのはその内容物の価格を合計すると、通常価格
よりも30~50%ほど低い価格設定になっているという。しか
し中には必要のないものがあるらしい。それらのものを除外
すると通常価格に近い価格になるようである。報道では福袋
の中身で自分に不要なものを他の人と交換している様子が写
っていた。外国人はそういうことができる合理性を持ている
ので感心した。日本人も子供の衣類の交換会などを行うこと
があるが、買った店の近くで直ぐに中身を確認して自分に不
要なものや好みの色でないものを他の人が買ったものと交換
しようという光景はこれまで見られなかったことである。
 それにしても沢山の福袋を買ってどうするのだろうと思っ
ていたら、お土産として持ち帰るということだった。福袋の
総売り上げ高が数兆円になるということだが、この調子で日
本の経済が好転すると嬉しいのだけれども。
 今年はどんな年になるのだろうか。安倍総理大臣の実行力
を信じ、それを国民がどれだけ支えられるかに掛かっている
と考えるのは私だけでは無いとよいのだが。
 

記事に関するコメントをメールで頂いた方々へのお礼20150105

2015年01月05日 13時14分17秒 | 日記・エッセイ・コラム
 私の書いた小説「その日から 子どもの戦争・戦後体験記」  
(四六版、435ページ、日本文学館発行)を読んで下さった方々
から、”貴方は子供の頃大変な苦労をなさったのですね”という
内容のメールを何通もいただきました。中には世界平和のために
母国語に翻訳して紹介して下さるという外国の方もいらっしゃい
ます。
 私の書いた小説に感情移入して下さる方がいらっしゃるのは大
変嬉しいこととお例申し上げます。しかしこの小説は小説なので
す。もちろん内容は私の経験したことが中心になっていますが、
筆者である私の忘れていたことを調査資料に基づいてあるいは想
像で補完した部分もあります。この小説の舞台になった時代はほ
とんどの方々が同じような体験をしていたと思います。その方々
の中にも本書の内容に共感して下さった方がいらしたのだと思い
ます。なお本小説は著作権法で保護されていす。
 さて本書は出版社では絶版になってしまいました。それでも平
和を願う方々に読んで頂ければと思って,本ブログに連載を始めま
した。お時間があるときに読んで下さいますようお願いします。
内容についての質問には出来るだけお返事を差し上げますが、次
の作品を執筆中のために時間がかかることがあります。ご了解下
さい。

元旦の大雪

2015年01月02日 18時30分31秒 | どっこい生きているぜ
 当地は海に近く温暖なところです。昨日元旦の午前中は
晴れて暖かい日になったと喜んでいました。頂いた年賀状
の返事を書いて印刷し投函にいこうと思っていたら一天に
わかにかき曇り雪が舞い始めたと思ったら激しい吹雪にな
りました。見る間に積もって5cmほどになってしまいまし
た。気温は2℃、北風が10メートルを超えているように
見えました。昨年も激しい吹雪になったことがありました
が、そのときは積雪が15cmほどにもなり10日ほど消えません
でした。

 今日2日は朝から晴れです。早速写真を写しに近所に出
かけました。




 葉の落ちた木の小枝に雪が付いていました。突然宮城県に
住んでいたときにお正月になると餅つきをしてドロップアメ
ほどの大きさに丸めた餅を、切り取った木の小枝に鈴なりに
付けて飾っていたのを思い出しました。これは後であられに
するのです。


 まん丸く膨らんだ小鳥が私の近くに来て遊び始めました。
カメラを向けても逃げることも無くしばらく私を楽しませ
てくれました。
 正午過ぎに年賀状を出しに郵便局に行ったら,沢山の人が
道路沿いに並んでいました。そう言えば今日は箱根駅伝の
往路の日でした。切手を買って外へ出て選手が通過するの
を見送って、局内に戻り切手を貼って投函して家へ帰りま
した。今年はよい一年になりそうな予感がしました。