寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

福島原発事故余聞(2)

2012年07月23日 19時03分26秒 | 日記・エッセイ・コラム

 報道によると、人体がどのくらい放射能に被爆したかを測定する線量計に、鉛の被覆をして着用させていたという。その理由は何なのか。報道によると、線量計の被曝量があまりにも多かったのでということらしい。

 人体の被曝量を測定して、指定量以上になると放射能の影響が発生する可能性が高くなるので、それ以上にならない範囲で作業に従事する。それを鉛で被覆して被曝線量を少なく見せようとする。この会社は人の命をなんだと考えているのだろうか。

 このブログの昨年のところに書いたことだが、人名をおろそかにするような作業を絶対にしないようにと書いたのだが、無知のなせる技なのか、利益を追求するために危険なことを承知でやってしまったのか、あるいは両者を合わせた状態なのか不明である。

 会社役員の話が新聞に出ていた。この件が報道されてから仕事が明らかに少なくなってしまったと。当然のこととは思わないのだろうか。人命を軽視するような会社に仕事を依頼したら、依頼主の方にも責任が発生する可能性が出てくるから依頼などするはずがない。このような当たり前の図式をわからない役員を抱える会社が発展するわけがない。

 このような事案が繰り返し発生する社会を改善しなければならない。政治家が議論をして、いろんな法律(規則:正式に何というのかわからないが)を作っているのだが、現場でそれを適用しないあるいは法律(規則)があることも知らないで仕事をする。困ったものである。

 作業員の方々も、疑問を持ったら、是非経営者に疑問をぶつけてほしいと思う。結果として自分の健康、強いては生命の危険にさらされるのだから、そして万一の場合には家族にも影響が出てくるのだから。会社は十分な保証をしてくれるからなんて考えない方がよい。保証問題が発生すると、会社は倒産することがあるのだから。すると保証はどうなるか自ずから明らかであると思う。

 自分たちの力で、作業環境をよくしていってほしいと思う。


ヒグラシが鳴き始めました20120721

2012年07月21日 21時16分49秒 | 日記・エッセイ・コラム

 20120718の朝9時頃、バス停でバスのくるのを待っていると、街路樹から「ジージー」というセミの音が聞こえました。

 そして、20120721夕方17時過ぎに、近くの林からヒグラシの鳴き声が聞こえてきました。まだほんの4、5回だけだったのですが弱々しく聞こえました。

 このところ厚い葉が続き、梅雨明け宣言がでたら、昨日、本日と5月の涼しさに下がったためでしょうか。セミは暑い日が続いたので、もう夏だと判断したのでしょうね。これから地上に出てくるセミの数が増えると、早朝4時頃にはセミの「カナカナ・・・」と鳴く音で眠りを破られます。

 筆者の居住地は普通の田舎町なので、四季折々の鳥の啼き声や虫の音がうるさいくらいに聞こえます。鳥は渡り鳥も他種類くるようで、色委お泣き気の種を運んできます。その種子が芽を出し、花が咲き実を付けると、それを餌にしている鳥が次々にやってきます。

 筆者の家を改修する前のことですが、段違いの屋根に隙間ができていたらしく、そこから天井裏に初めに雀が入り込み巣を作っていたことがあります。

 初夏から秋にかけては、雀が巣を使い、秋にやってきた椋鳥がその巣を使おうとします。そこで、雀と椋鳥の間で壮絶な巣の確保合戦が始まります。おおかたは椋鳥が勝つのですが、損害も出ていたようです。雀の方も地上に降りて息絶えるのもいます。

 またその穴を通って、アオダイショウ(約2メートルほどの大きさ)が入り込み、雀をおそうことがあります。蛇が天井裏を這いずり回るときに発する、ずるずるという音は、不気味に聞こえます。

 そんなこんなの自然がいっぱいの中で暮らす寓居人のつぶやきでした。


旧きことは ことさらに よきことかな

2012年07月19日 18時43分50秒 | 日記・エッセイ・コラム

 昨日、(20120718)

久しぶりに築地の料亭で3人の旧友に会った。おいしい会席料理を食べながら、おさない頃の話に花が咲いた。4人寄るとあの話はどうだったか、このことはああだったとか、4時間も話題に噂話が重なることしきりだった。人それぞれにいろんな社会を生きてきた証のような話であった。

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 昼食の終了時間になり、店を出た。それでも話が尽きないために、近くの喫茶店へ移動してさらに3時間もお喋りに花が咲いた。

 4 人はそれぞれ、宇都宮、掛川、越谷、神奈川県西部の町と居住地が遠く、旧友に会える楽しみで心弾ませて集まった。喜寿も近くになると体調も思わしくないところも出てくる。一人の方が、最近急に足腰の痛みがひどくなり杖に頼りながら歩行するようになってしまったという。東京駅で待ち合わせ、タクシー乗り場へ歩いて行く途中で、車いすを押している駅員に合った。私たちを認めたその駅員さんは、車いすでタクシー乗り場まで行きましょうと申し出てくださった。ありがたく車いすに乗せてもらい、タクシー乗り場へ行くことができた。料金を聞いたところ、無料という話であった。筆者は、初めて見た東京駅の構内サービスに驚き、心温まる思いであった。

 帰りは、東京駅構内の東京ばな奈本店という店にしか売っていないバームクーヘンを孫に買って帰るというので、その店を探した。なかなか見つからないので、何かの商品を運んでいる方に聞いたところ親切に教えてくれた。

 孫の希望を叶えることも、老人の幸せな行事かもしれないと、今生きている喜びを味わった。

 旧友たちとは、再会を約してそれぞれの乗車口に向かった。Photo


 


想い出話 雲仙の地獄は踏み絵の名残消え

2012年07月14日 13時38分41秒 | 旅行記

 長崎から車で約1時間で、雲仙温泉郷へ着く。 雲仙温泉郷には時代の波に揺すられた歴史があるという。

 筆者に強烈な印象を与えた遠藤周作の「沈黙」(1966)は、徳川幕府の鎖国政策と先進外国の宣教師との間の壮烈な精神と権力との戦いであった。

 ここを訪れた筆者は、権力に屈せず、この地獄に散っていった幾多の宣教師たちの霊を慰めたいという感情を持たされてしまった。また権力を行使しなければならなかった、役人もおそらく精神的に甚大な苦痛を持ったに違いない。

 筆者は宗教に関心をもつことはないが、宗教が原因で壮絶な闘争が現在でも起きていることに非常な違和感をもつ。

 このブログの写真は、前回と同じように約半世紀ほど前のものである。最近ここへ行かれた方は、昔と違う景色に気がつくだろう。今は観光が中心になって通路や、道が歩きやすくなっている。観光客は歴史に思いを馳せることがあるのだろうか。

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 雲仙温泉郷にある満明寺は、701年に開山された真言宗御室派の寺院である。この寺院は、記録によるとその全部あるいは一部を焼失再建を繰り返してきた。下の写真は、僧侶の像のようであるが、その由来は記憶から喪失してしまった。

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 下の写真は、半世紀前に初めていったときに宿泊した、公立学校共済の宿舎である。妙見山荘という名であるが、現在はなくなっている。この宿舎の前に人工湖があった。その岸辺から普賢岳が望まれた。

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想い出話 長崎は 試練の時を 乗り越えて(20120703)

2012年07月03日 11時40分59秒 | 旅行記

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 今回の写真も、約半世紀前の物である。

 長崎といえば話題に尽きないが、日本の西洋文化を受け入れた黎明期に多くの日本人に驚きと感動を与えたところである。

 旧日本海軍の造船所があり、今もその伝統が続いている。

 

 しかし、太平洋戦争で、広島に次いで人類未曾有の経験も経験することになった。

下の写真の半分破壊された鳥居は、その象徴である。2008年に行ったときの長崎は、この鳥居付近には家が建ち、原爆遺物の柱が道路脇に並べられていた。

 原爆記念館の展示物の写真を撮影することが出来なかったが、涙する遺物が多数あった。

原爆を禁止して世界の平和を祈る記念像の前には沢山の人々がいた。

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 原爆投下による被災者の治療に昼夜を忘れて働いた、永井博士の記念館も是非見学して欲しい。永井博士は最後に自分も白血病に倒れてしまった。

 永井博士の随筆を元にした「長崎の鐘」という歌もある。

   召されて妻は天国へ・・・・で始まる。

 原爆の被害を内容とした「黒い雨」という映画も公開された。

 

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 筆者の友人の中にも、長崎市から少し離れたところに住んでいた子供の頃に、原爆の爆風によって十メートル以上も吹き飛ばされたという人が数人いる。