寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

後期高齢者になると

2011年03月31日 17時55分01秒 | 日記・エッセイ・コラム

後期高齢者になると

 もうすぐ後期高齢者になる筆者は、最近いろいろなことを経験することになった。まず、後期高齢者という言葉であるが、何となく差別されるようでいやな言葉であることに気がついた。この命名に関してはいろんな意見があって最終的にこの名前が付けられた。
 そもそも高齢者に対して特に区別するような名前を付けること自体が人権問題につながるような気がしてならない。元を糺せば、高齢者の医療費負担が、増大して健康保険組合が赤字になるからという。そしてその赤字分を若い人たちが負担する。その負担分が高額になるという。それを軽減するために高齢者の医療費を増やそうと考えることにある。
 年齢を重ねるごとにいろいろな体調不良を訴えるようになるのは当然のことである。どんなに鍛え上げた身体をもっていても、70年も使ってくればいろんな所がほころんでくるのはごく普通のことである。その分社会にもそれなりに貢献してきた。そのような高齢者が快適にとはいえないけれども、それなりの生活をするために必要な医療機関を受診するのはある程度必要なことではないだろうか。
 また、日本の人口構成を考えると、いわゆる団塊世代これはつまり太平洋戦争の中から復興へ向かう原動力として働いてきた人たちがその役割を終え、休息の時代を迎えることななったということである。この人達の世代人口が全人口に対して高比率を占めるのは歴史的に見ても事実である。これにはいろいろな原因が考えられるが、個人の責任ではない。このような背景をもった人たちが高齢者になった。
 そして、医療にかかる経費の面であるが、医療技術が発達して、高度技術の結晶のような診断装置が普及し、病気の診断にそのような装置を使用する。また、医薬品も長い年月と多大な経費をつぎ込んで研究して開発されたものを投与する。したがって、医療にかかる費用は高額になる。その医療・施薬費用が高額になるのは誰が考えても当たり前であろう。そして世代人口が大きいと来ている。これらを総合すると患者の一部負担金を除いた分を、健康保険組合が支払うことになる。その金額が膨大になるのは前から予測されたことである。それがその時期になって、あたふたとして医療機関を受診する高齢者の負担額を増やそうと考える。その裏には言外に負担額が増えれば受診率が減少し、その結果、健康保険組合の支出額は減少する。これでめでたしめでたしとなるのだろうか。
 このことは年金についても同じようなことがいえる。筆者は幸か不幸か共済組合に加入してきたので年金問題で問題を抱えることはない。しかし、制度がはっきり確定しない状態で発足した国民年金制度は、複雑な問題を抱えることになった。国民年金はいろいろな面で受給者に不公平感があるようだ。これも膨大な保険料を、保養施設建設などに湯水の如くつぎ込んで経営が悪化しても継続し、いよいよ破綻すると二束三文で売り払う。このような経済法則を無視するような方法で将来展望を考えることなど出来るはずがないし、その結果破綻するのは当然である。その埋め合わせとしてその他(共済組合など)の年金組合を取り込んで財源がある所に不足分を負担をさせる。これもおかしなことである。といっても年金制度を一本化することに依存があるわけではない。
 もう1件。それは高齢者の自動車運転免許更新(取得)に関することである。70歳になると、高齢者講習というのを受けてその修了証をもって更新するようにという通知書が送られて来る。その費用は数千円から七千円程かかる。講習時間は、約4時間に及び、その中には自動車教習所内で実技講習もあった。さらに75歳以後の更新は、いわゆるボケ検査らしきものもある。そして優良運転者(ゴールド)制度はなくなり3年ごとの更新になる。
 確かに、高齢者の運転は不安定な要素がある。そのための予防措置として高齢者講習というのも必要なこととして納得することが出来る。しかし、収入の少なくなった者にとってこの出費は生活に影響することがあるかもしれない。
それが問題なのである。
 さて、今の日本は、何十年も、子供を育て、社会を支え、日本の国のことを考えて努力してきた高齢者を邪魔者扱いする制度や政策をとることが当たり前になっているように感じる。これは筆者のような高齢者のひがみであろうか。こんなことを感じさせる社会を何とかしなければならない。


東日本巨大地震(4)

2011年03月27日 18時54分28秒 | 日記・エッセイ・コラム

 東日本巨大地震が発生してから2週間が過ぎた。被災者の方々のご苦労を考えて、筆者の経験を少しだけ書いてみます。この話は地震とは関係ありませんが、避難生活を送ったことには変わりありません。
 昭和20年3月10日午前0時過ぎに前夜の警戒警報解除後しばらくして、いきなり空襲警報が鳴り響いた。当時筆者は国民学校(今の小学校)2年生であった。そして家族7人で水天宮の近くの日本橋蛎殻町に住んでいた。警戒警報が発令されたとき明治座付近の居住者のうち、子供と老人は明治座へ避難するように指導されていた。筆者も母と一緒に急いで明治座へ避難するべく背嚢(リックサック)を背負い、家を出て明治座に向かった。 しかし、浜町のあたりは既に激しい火花をまき散らして燃えていた。そのため筆者らは明治座へはいくことができなかった。それで有馬国民学校へ避難することにした。家族の約束でいざというときには有馬国民学校へ行くことに決めてあったからである。もしそこがだめなときは日本橋本町の筆者の従兄弟の家へ行くことになっていた。
吹雪のように吹き荒れる火の粉の中を筆者らは有馬国民学校へ急いだ。学校へ着いてみると沢山の被災者がいた。学校では、毛布と缶詰などの食料をもらった。その日の空襲で筆者の家も焼失してしまった。そのときは、初めは少し強い風が吹いていたが、火災が激しくなるに従って風は強くなり、隅田川の東岸の火災は渦を巻いているように見えた。火の粉は吹雪の時の雪のようであった。隅田川西側つまり明治座や浜町の民家はいわゆる類焼したものかもしれない。
 こうして筆者は、避難生活に入っていった。初めは有馬国民学校で数日間、その後従兄弟の家で約一ヶ月間、その後に、柴又へ家を借りて引っ越した。
 当時の避難生活は、今のように周辺に物資があってそれを待っていれば手に入るということはなかった。周辺どころか空襲に次ぐ空襲ですべてが焼き尽くされてしまい、日本中に物資がない状態であった。従って備蓄されている物品だけで生きていかなければならなかった。そのときの一杯の白湯の振る舞いががどんなに美味しかったことだろう。
 このような状況で、何もかも失った被災者にとって、今何が不足していますかとか、何をしてほしいですかと聞くことは、ある意味で被災者にとって迷惑な質問なのではないだろうか。一目見て被災者は何もかも失った状態であり、現在の悲しみを超えて、将来どうやって生活を立て直すかという考えで心の中は一杯になっているはずである。もちろんそうした被災者に援助の手を差し伸べて支えていくことは重要なことである。援助の手を差し伸べるにやぶさかではない。出来る範囲のことをして差し上げたいと思う。とりあえずは義援金の寄付であるが。
 最も大事なことは被災者が自ら立ち上がることです。がんばってください。
 被災者の方々に心からがんばっていただきたいと激励の言葉を贈ります。そして亡くなった方々に衷心よりお悔やみ申し上げます(合掌)。そして行方不明になっている方々が一時も早くその所在が明らかになりますようにお祈りします。


東日本巨大地震(3) 遠隔地の様子

2011年03月22日 20時16分14秒 | 日記・エッセイ・コラム

 東日本巨大地震の被災地の方々、日本中があなた方を何らかの形で応援しています。1日も早く復旧することを祈っています。TVや新聞報道で被災者の方々の厳しい生活状態に頭が下がる思でいっぱいです。
 さて今回は被災地域から遠く離れた、筆者の住んでいる我が町の様子を書くことにした。
3月11日午後2時47分頃、立っていられないほどの揺れを感じた。筆者宅の2階の部屋の棚の上の書籍やヌイグルミ、VTRテ-プなどが床に少々だが散乱していた。これがM9.0の地震であり、その後続けて大きな地震が次々に発生した。 その後も連続してM6前後の地震の揺れを感じた。
 筆者はたまたま、前日に、この日は第2次世界大戦で東京大空襲のあった日である。この日はそのときのことを思い出して水と保存食料を買い置きすることにしてきた。その関係でたまたま2リットルペットボトル6本入り箱と乾麺や乾燥パスタ、野菜などを買い込んできた。
 そして、よく11日の巨大地震発生である。夕刻近くのスーパーへ行った。店内はたくさんの買い物客であふれていた。商品棚を見ると肉類が全く姿を消していた。他のものはまだ棚に並んでいた。
 12日夕方。同じ店に行った。肉はすべてなく魚はあった。ハムやベーコンはまだあった。米やパンもまだあった。
 13日、日曜日なので昼過ぎに同店に行った。ここで驚いた。米、肉およびその加工品類、パン、水ペットボトル、お茶ペットボトル、乾電池(充電式のものもふくめて)全く姿を消した。ガソリンスタンドは閉店のところがあり、開業している店には数十台の車が並んでいた。
 14日、13日と同じ状態が続いていた。この様子を見て実際に被害に遭った地域から離れた場所で商品がなくなっているのは、被災地へ救援物資として送るために店が商品そろいを少なくしたのかと思って店の方に聞いてみた。店の人はいつもと同じように商品を並べているということだった。とするとまた買い溜めが行われたのかと想像できた。
 被災者の方々のことを考えると少しさもしいかなと感じた。19日頃まで商品は棚に残っていることはなかった。
 20日には肉が少しだけ残っていたし、その他のものは弁当が30食分ほどと寿司のパックが20食分ほど残っていた。惣菜類はコロッケなど何もなかった。
 21日15時頃、肉類が少し残っていたが、パスタ類が全部なくなっていた。米が原料のセンベイなどもほとんどなくなっていた。しかし、ガソリンは短時間並んでいれば満タンにしてくれるということだった。
 オイルショックの時のことを思い出した。あのときにも同じような現象が起きていたのを思い出した。笑い話ではなく、台湾へトイレットペーパーの買い物ツアーが実施されたということがあった。筆者の仕事で使用するプリンター用紙がなくなり、裏も使用したり、それもなくなると、テレタイプのさん孔機用テープを使って、あいた穴を読む練習もした。我々は非常事態になったときにその原因を分析し、どのような対応ができるのを考えて行動しなければならない。被災者の困窮状態を考えれば、自分の家だけ食料もその他の生活必需品を確保したからこれでよいと考えるのは情けない気がする。被災地の子供を初め大人もできるだけ助け合おうとしているのを是非見てほしいと思う。
 22日、スーパーの商品棚が少しずつ埋まり始めた。
 被災者の皆さんもう少しの辛抱です。日本中のそして世界のたくさんの国の人たちが皆さんのために動いています。筆者もさらに何かできることはないかと考えます。


東日本巨大地震(2)

2011年03月22日 18時18分24秒 | 日記・エッセイ・コラム

 大地震が発生してから10日間が過ぎた。初めは津波のことだけが報道されて津波のすごさに唯々驚くばかりであった。そして地震の被害についてはあまり報道されなかった。一つの映像が報道された。広い道路の片側車線に亀裂が入り、道路の外側へ傾斜している映像であった。その他の地震による直接被害状況は見ていない。しかし、報道をよく見ていると山間地の被災地への道が途絶えていて救援物資を届けられないということだ。ということは相当ひどく地震直接の被害があったということである。一時も早くそういうところへも救援物資が届けられるように道路修復が行われることを願う。
 このところ福島県の原子力発電所の異常報道が各紙紙面の多くを占めるようになった。前回も書いたが、原子力発電所の事故は一度起こってしまうと修復・復旧するのに大変な危険と時間と労力が必要になる。これを書いている現在も、自衛隊や消防隊の献身的な放水活動が継続されている。また津波による被害を被った原子炉機能を回復するための電気工事も進められている。筆者は、彼らに大きな感謝の気持ちを伝えたい。一つ気になるのは、放射能汚染地域で活動し、交代して休息に入ったとき、十分な睡眠と良質の栄養を摂っているだろうかということである。放射能被爆の可能性のある現場で作業する方々に最も必要なのは最低その二つだからである。この二つのことは関係団体の長の方にも是非お願いしたい。
 筆者は、今の自分に何ができるだろうかと考えた。あと3週間で後期高齢者になるものにとって、肉体労働はかえって若いボランテアの方々の邪魔になるだろう。そこで今月予定していた教え子との食事会を延期にしてその費用などを義援金として寄付することにした。また、節電にも最大の努力をすることで間接的に少しでも復興のお手伝いができればよいと願う。
 現場で復興のためにがんばっている方々に感謝の気持ちを、避難所で不自由な生活をされている方々に一日も早く自活の道が開けるように、そしてまだ消息不明の方々が少しでも早くお帰りになるように、お祈りします。そしてこの災害で犠牲になられた方々に衷心よりご冥福をお祈りいたします(合掌)。


東日本巨大地震

2011年03月15日 22時28分41秒 | 日記・エッセイ・コラム

 昔から世の中で怖いものの順番は、”地震、雷、火事、親父”といわれてきた。親父は最近では怖いものの中に入らなくなってしまったが、突然発生する地震や雷は自然現象であっても怖い存在に変わりはない。昨日、2011年3月11日、午後2時46分に発生した地震は震源地近くの宮城県、福島県を初め多くの都県で重大な被害をもたらした。被災された方々には謹んでお見舞い申し上げます。同時に亡くなられた方々には衷心よりお悔やみ申し上げます(合掌)。地震は揺れることだけでなく、急激な地形の変化を伴うことがあるために大きな影響が出ることがある。その代表的な例が津波である。津波という言葉は世界中で使われるようになった日本語の一つである。
 当日、地震発生の時、筆者は自宅にいて息子と話をしていた。息子が地震かもしれないね。というので静かにすると横揺れを感じた。その揺れが長いので遠くで大きな地震が発生したのかもしれないと話していると、突然大きな横揺れがきた。横揺れというよりもむしろぐるぐる回るような、あっちこっち引っ張ったり、押されたりという揺れ方をした。これは震度5以上の揺れ方だ。と息子に話していたところ、震源は宮城県沖という第1報が報道された。宮城県と当地とではでは500Km弱離れているから、向こうは震度7以上になっているかもしれないなと話した。震源と震度、マグニチュードが中々報道されないので待っていたところ、震度7以上、マグニチュード7.8と発表された。
 ここまで書いてきたところで中断した。TVの画像で報告されるのを見ることにした。ライブカメラの映像が宮城県の海岸の様子を次々と映し出した。筆者は、小学校4年生から中学、高校を卒業するまで宮城県の開拓地にいた関係で友人が沢山いる。すぐに彼らにお見舞いの電話をかけたが、全くつながらなかった。
 地震の大きさはもちろんだが、津波の破壊力のものすごさはスマトラ沖地震に伴う津波の状況からも知っていたが、今度の場合もそれに相当するように、むしろ地形の関係でもっと大きなものになったと推測される。下の方が見えないので何階建てか不明であるがおそらく3階建てかと思われるビルの屋上にかなり大きな船が載っけられている写真が報道されたり、他のビルの4階付近に流れ着いた樹木の枝が引っかかっているのを見ると津波の高さは、20メートル以上に及んだと推測される。
 地震による被害がどうなっているかの報道は少なく不明なのも心配である。それほど津波による被害が甚大だということであろう。
 橋梁、道路、その他の建築物などは、過去に発生した地震などの最大値の1.5倍とかを基準(実際にはどうなっているのか不明であるが)にして構造を設計しているようであるが、自然現象は人間が考えている基準をはるかに超える大きいものが発生するのはよくあることである。
現実にそのような事態が生じると、想定外であったという発表になる。今度の災害でも同じようなことがいわれている。
 原子力発電所は、災害が発生すると放射能というやっかいな物質が自然界に放出されることがある。この放射性物質というのは水で希釈しても焼いても、あるいは地下深く埋め込んでも、その物質に特有の一定の時間(半減期という)が経過して初めて放射能の量が半減し、おおよそ4ないし5半減期で検出限界いかになるが、消失することはない。

 かって同僚に、高木仁三郎という科学者がいた。彼は原子力発電所設置に強力に反対していた。それはアメリカ合衆国のスリーマイル島で発生した事故のことに精通していたからだ。アメリカのように国土が広く、原発事故が発生した地域を放棄することが出来他のは不幸中の幸いだったのかもしれない。

 日本はそうはいかない事情がある。さらに世界でも有数の地震国である日本は、どのような不測の事態、いや、想定外の事態が起こるかわからない。ということを考慮しなければならない。しかし現実に事故は起きてしまった。

 技術大国日本でこの事故をどう処理するかを世界中が見守っている。何重にも安全策を立て、繰り返し繰り返し安全を守る訓練をしてきたのに、想定外の巨大地震発生によって不測の事態になっている福島第1原子力発電所の4基の内3基が原子炉が再生不能の危機に瀕している。現場で必死に危機を救おうとしている方々には大変なご苦労をかけるが何とか安全を取り戻していただきたいと唯々願っている。


囲碁の話 (3) -目碁-

2011年03月05日 20時16分03秒 | 日記・エッセイ・コラム

    筆者の後輩にS君という男がいた。S君は学生時代(50年ほど前の学生は貧乏な人たちが沢山いた。)生活苦にあえぎながら勉学にいそしむ一方で、囲碁部にも所属して棋力向上にも著しい成績を上げていた。そして町の囲碁クラブとか碁会所などへ出入りするようになった。当時のS君は囲碁部の中でも強い方(たぶん5段くらいは打っていたと思う)で町の碁会所では6段くらいで打っていたらしい。その碁会所によくいた人にいろいろなことを相談しているうちに、生活苦の話も出たのだろう。そのうちにその人に生活の面倒をみてやるといわれた。その代わりに時々紹介する人と碁を打って僅差で勝つようにといわれたらしい。そのとき、囲碁部の先輩たちに相談すればよかったのにそうしなかった。そのときを以てS君の人生は変わってしまった。その後も、大学の囲碁部へたまに顔を見せることがあった。まず服装がよくなったし、後輩たちにお茶や食事をごちそうしてくれるようなことがあった。囲碁部へは来ることがあるが授業には出ることはなくなったらしい。
 しばらくして、S君はプッツリと大学へ来ることはなくなった。囲碁部の部員たちもいつのまにかS君のことを忘れてしまった。筆者は大学に残り時々囲碁部の部室へ行って後輩たちと囲碁を打つことがあった。そうしたある日、筆者と同じくらいに卒業した元部員の人(仮にK氏とする)が、ある市の駅に近い囲碁会所でS君にあったという。
 K氏の話によると、S君はいわゆる眼光鋭い猟犬のような感じがしたという。見た感じでは生活は楽でないことが一目でわかったという。K氏は、S君に声をかけたが不思議そうな顔をして「何方でしたかな」といったという。K氏は自ら名乗って、S君を食事に誘い出して身の上話のようなことを含めていろいろな話を聞いた。
 S君は、大学から姿を消した頃から、賭碁を打つようになったという。町の碁会所で知り合った人が、いわゆるお客さんを連れてきて、S君と勝負させてS君に勝たせる。それも僅少差が条件であったから、いつも2,3目だけ勝つように打ったらしい。すると仲介者が数千円の金をくれたと話した。S君は、好きな碁を打って金がもらえることに有頂天とはいかないまでもかなり得意になっていた。しかしそんな甘い生活はいつまでも続くことはないという世の中の定説通りになっていった。勝負に厳しい条件が加わり、さらに負けたときには借金まで残るようになってしまったという。仲介者との縁も中々切れないのでだんだん荒んだ生活になってしまった。それでもようやく仲介者との縁を切ることができた。しかし、S君の生活は苦しく自分から勝負の相手を探してかけ碁を打つようになった。賭け事いうのは、いろいろあるようだ。例えば、1回の勝ち負けでいくらかの金額をやりとりする。また、1目あたりいくらというのもあるらしい。この両者を併せたようなことも行われるらしい。
 K氏は、住むところと仕事を紹介するから、今の状況から抜け出すように進めたが、返事は曖昧であったという。そしてS君の消息はまったく掴めなくなった。
 筆者たちが楽しんでいる囲碁もちょっとしたことがきっかけで違った人生にそれることがある。S君のような生き方を否定することはできないが、囲碁に限らず競馬や競輪、そして最近ははやっているゲームでも気をつけないといけないだろう。
 この話に通じない蛇足かもしれないが「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」という言葉を筆者は好きである。


囲碁の楽しみ(2)

2011年03月04日 00時21分37秒 | 日記・エッセイ・コラム

 筆者の住んでいる町には、囲碁クラブなるものが4つほどあることがわかった。筆者はこのうち2つの囲碁クラブに参加していた。しかし、半年前に一つのクラブを休会にした。というのは他のボランテア団体での活動が忙しくなってきたことと身の周りの整理を少しづつ始めたことによる。したがって、今は週に1回か2回それも半日碁を打つくらいに減ってしまった。にもかかわらず、最近は半目くらい強くなったように感じる。町の囲碁クラブに入った当初(18ヶ月程前)にはしばらくぶりで碁を打つようになったので、力が落ちていたが、以前の棋力に近づいてきたようである。

 さて棋力というものは、人と場所によってかなり開きがあるように思う。筆者が勤務していた頃のことだが、日本棋院で発行している雑誌の新年号とかに囲碁のいろいろな問題100題の回答をして編集部へ返すと、棋力判定される。またいろいろな棋力判定が行われることがある。筆者の同僚だったA氏は、それらの判定で6段の取得資格(有料で20万円くらい必要といわれている)を受けていた。筆者は、A氏に互い先でいい勝負をしていたことを思い出した。対戦しなくなって方久しいので、今は両者の棋力の差がどうなっているか不明であるが、機会を作って対戦したいと思うのだが、A 氏も筆者も後期高齢者なので(もっとも筆者はあと35日程の猶予があるが)、場所の設定が難しい。これからの楽しみにしたいと思う。囲碁を打っている間はぼけないそうなので、これも囲碁の楽しみである。


久しぶりに大島と利島が見えました。

2011年03月03日 22時44分37秒 | まち歩き

 孫の節句のお祝いに娘の家に招かれました。爺馬鹿といわれるかもしれませんが、孫娘はそれはもうとってもかわいい赤ちゃんです。筆者の顔を見ると両手を差し出しながら近づいてきます。それはだっこして欲しいということを表しています。抱っこしてあげると喜んで柔らかいほっぺを付けてきます。痛い腰を気にしながら高いたかいをしてあげると声を出して喜びます。こんな孫娘に会うと、筆者は恥も外聞もなくとろとろになってしまいます。もちろん上の男の子達もそりゃかわいいですよ。しかし幼稚園年長以上になると、自己に目覚めてきまして自分の世界をちゃんともっています。彼らは水泳とサッカークラブに入って運動し、その合間にいろんな本を読み出しました。ということでひな祭りはひな壇の前で写真を撮り、美味しいお菓子を食べてお開きになりました。

 帰りの道は西湘道路を車で走りました。大磯港を過ぎてから海の方を見ると曇天の下にオレンジ色の背景をもった大島と三角形の利島がくっきり見えました。朝早い時間には、南の海に大島が見えることがありますが、この時期の夕方近い時間帯に大島が見えるのは珍しいことです。この道路から見えた大島は、東側が断崖絶壁のように見えます。西の方へなだらかに高度を上げ三原山に至り、さらに西側もなだらかに高度を下げ、最西端はやはり断崖になっています。三原山は島中央部よりも少し西側にあります。大島の少し西に薄く島影が見えましたが形が明確ではないのでどの島か不明です。

 島の背景のオレンジ色は晴れているためでしょう。気象庁の天気図を調べますと大島の南に曇天部と晴天部の境界があることがわかりました。車を止める場所がなかったので写真を撮影できませんでしたのが残念です。西湘道路は雨が降り出してきました。

 九州の新燃岳の噴火とニュージーランドの震災で被害に遭われた方々にお見舞い申し上げます。