寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

想い出話 平戸から長崎へ  細々と 文化を育てた 異人たち 

2012年06月14日 23時22分08秒 | 日記・エッセイ・コラム

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   古い写真が出てきました。平戸島へ渡る連絡船の出航の様子です。船の出港時にはよく見る光景ですがいいものですね。この光景は、鹿児島県の離島へ船で行くときにもよく見る光景です。

 同僚の見送り、友人の見送り、家族の見送り等々いろいろなわかれがありますね。

 このテープが問題になったこともあります。海を汚すというのです。それはテープの材質を改良したり、あるいは名残を惜しんだ跡にはゴミを残さないという工夫もあることでしょう。

Photo平戸島の船着き場付近の様子です。

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この写真は何を写したものか忘れてしまいました。平戸城の中にあった像だと思います。

 台座に歌のようなものが書いてあります。

 どなたかご存じの方がおられましたら、コメントをいただけたらと思います。

 下の写真はオランダ井戸と書いてあります。平戸で暮らしたオランダ人の使用した井戸でしょうか。

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この写真は平戸城の遠景だと思いますす。

  下の写真は何かの遺産に指定されているソテツの古木です。

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 松浦史料博物館入り口付近を移したものです。


 想い出話 平戸では 欧州土産で 世が変わり(日本文化の夜明け) 

2012年06月11日 18時17分28秒 | 旅行記

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はじめに笑い話を一つ。

 「平戸へ行きます」というと、 友人が「何をしに行くのか」と問うた。  

「日本の夜明けを見に行く」と答えた。 

 すると友人は、さらに問うた。

「日本の夜明けは平戸がきれいなのか」と。

「はい。平戸はヨーロッパへ海でつながっていますから」と答えた。 

 友人は、きょとんとした顔をして黙ってしまった。

 他愛もない話であるが、説明が足りないとこうなってしまうことがある。

 西洋人が初めて日本に、一時的にしろ定住したのは、平戸であるといわれている。その後いろんな理由で長崎に居留地がもうけられて、貿易を通して西洋文化が伝えられた。

 初めて平戸へ行ったのは、数十年前になる。

 そのときは、はっきり覚えていないが、”田平口”というところから連絡船に乗って、平戸へ渡ったと思う。

 現在は、写真のような橋が架かり、便利になった。よく認識できなくて失礼しました。

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 1550年(天文19年)初めてポルトガル船が来港した。その後数ヶ月して、フランシスコ・ザビエルがきて、キリスト教の布教を始めた。そのため、現在でも信者が多数いるという。この写真の教会は、1931年に鉄筋コンクリートで作られたものだという。

 1561年には、ある事件が発生し、ポルトガル船との貿易は、翌年から現在の長崎県西海市横瀬に移された。

 日本の文明の夜明けはこうしてはじまった。

 しかし、日本の文化の発展に多大の貢献をしたキリスト教は、徳川時代に入ると殉教の道を歩くようになった。

 遠藤周作の「沈黙」という小説ににその拷問のすさまじさが書かれている。神を信じる心と個と全体の生命を命題にしているが、私にはこの年になっても、宗教は本当に人間の魂を云々できるのか疑問である。(いつかこの問題にも触れることがあるかもしれない)

 平戸藩の設立は松浦鎮信が、徳川家康に認められて、6万3千石を安堵された事にはじまる。

 現在は、平戸城および周辺を含めて史跡公園とした。サクラの名所としても有名である。

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想い出話 焼き物は 人それぞれの かげ映す(伊万里の里で)

2012年06月09日 22時58分04秒 | 旅行記

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 伊万里の里は、小高い山に囲まれた静かなところであった。

 

 伊万里の里は、焼き物だけかと思っていたが、いろいろな果実も生産されており、なかなか名代のものになっているという。

 

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 窯業を専業にした人たちは、左の地図のなかに住んでいるようだ。

 車が注意してすれ違うことが出来るほどの狭い道を上がると、T 字路になっている。そこを右に曲がるとさらに坂道が続いている。しばらく行くと、道の両側に店が並んでいる。

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 店は一軒が一つの窯元のようであった。

 窯は少し離れた山のなかにあるという。

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 一軒の店に入ったところ職人さんが、さらに絵付けをしていた。

 筆一本で画いていく絵は、心休まるような絵柄であった。一枚の皿が完成するまでにいろんな工程をたどり、いろんな人が各工程に関わっているという。

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 絵付けに使う絵の具は、大方のものは金属の化合物である。絵付けされた金属が他の物質と反応したり、高温によって変化して、別な色合いを出す。

 その色合いをどう出すかが作者の特徴になっている。

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 絵付けの終了した皿は、乾かしてからさらに焼くのだそうだ。

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 こうして出来た作品は各店で展示されていた。

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 これはひな人形の焼き物である。何とも気品のある作品であった。

 筆者は、いろんなところへ旅をするのが好きである。旅先では必ず窯元を探して訪ねることにしている。

 伊万里からほど遠からぬところに、三河内というところがある。ここは、かって平戸藩の御用釜だったという。三河内窯を訪ねたとき印象に残ることに出会うことが出来た。後日ここを訪ねたことを書きたいと思う。


想い出話 高齢化? 唐津の朝市 ちとさびし

2012年06月07日 11時27分41秒 | 旅行記

Dsc_01061 福岡空港でレンタカーを借りて、唐津→伊万里→平戸→九十九島→長崎という経路で旅をした。

 今回は、唐津の朝市を紹介する。唐津を訪ねたのは、今回で3度目になる。

 

 平日の故か、さびしげな朝市であった。はじめてきたときは、店が道路の両側に並んでいて、人々に活気があって賑やかだった。

Dsc_0109_106 高齢化の影響かという考えがふと浮かんだが、元々朝市は地元周辺の農家の方や、漁業の方、商いが専業の方々もいるだろう。そのような仕事をしている高齢者の方々が自分の家で取れたあるいは作ったものを持ち寄って商いをしていたので、高齢化のの影響と言うことはないだろうと思う。

 そんななかで水産加工の仕事をしている店をのぞいた。年配の女性が脇目もふらず仕事をしていた。50~60cmの魚(ソイとかいったと思う)をなん百匹も次から次へと裁いていく仕事          

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                        ぶりには感心した。かまぼこなどの練り物にでもなるのだろうか。

 

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 港へ行った。姿のよい帆船が停泊していた。こんな帆船で周遊したらいい気分だろうと思った。海から見る陸の様子は、陸のなかで見るのと違った見え方がすることが多い。

 旅は、いずれにしてもよいものだ。

 またここへ来ることがあろうかと思う。そのときは賑わいを取り戻していることを期待したい。

 

 ここで食べた、焼き芋がうまかったのを突然思い出した。それはなかが白いにもかかわらず金時いものようにうまかった。

 唐津にはその昔、秀吉が朝鮮遠征の時に築いた城の跡がある。

 ”つわものどもの夢の跡”