monologue
夜明けに向けて
 



94/02/28 自分の「心=魂の前庭」に沿わない事は、「腑に落ちない」ものだ
94/03/01 腑に落ちない事を放置し続けると「心=魂の前庭」の機能が落ちる
94/03/02 「心=魂の前庭」の機能が落ちると、良心の働きが悪くなる
94/03/03 良心の働きが悪くなると、人は人であることの意味すらも見失う…

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  「心=魂の前庭」で思い出すのはオオクニヌシである。オオクニヌシは国造りにともに働いたスクナビコナが常世の国に帰ってしまってがっかりしていると、海を照らしてやってくる神様(つまり海(アマ)照(テ)ラスが「私をよく祭れば、ともに国を作ろう。さもなければ国造りは難しいだろう。」という。
オオクニヌシ神は「それではどのようにお祭り申し上げればよいか。」と尋ねると「大和の青垣なす東の山の上に斎き祭れ。」と答える。これは三諸山の上においでになる神様で日本書記一書には、 この神は「大三輪の神」で大蛇で、オオクニヌシ神の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)であるというであると記されている。この神は「大物主神(おおものぬしのかみ)」であり、「和魂」、「大国主神」が「荒魂」の名であるといわれている。結局はニギハヤヒなのである。

  ここにでてくる「幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)、「和魂、荒魂」などという魂がどういうものかわかりにくいけれど人は、天と繋がる一霊「直霊」(なおひ)と荒魂(あらみたま)、和魂(にぎみたま)、幸魂(さちみたま)、奇魂(くしみたま)の四つの魂から成り立つという一霊四魂(いちれいしこん)説によっている。「心=魂の前庭」ということは、心はそれらの魂の前庭で人が人であるために働いているらしい。
fumio


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