山本藤光の文庫で読む500+α

著書「仕事と日常を磨く人間力マネジメント」の読書ナビ

佐伯一麦『ア・ルース・ボーイ』(新潮文庫)

2018-03-03 | 書評「さ」の国内著者
佐伯一麦『ア・ルース・ボーイ』(新潮文庫)

loose〔lu:s〕a.(1)緩んだ.(2)ずさんな.(3)だらしのない.…(5)自由な.―英語教師が押した烙印はむしろ少年に生きる勇気を与えた。県下有数の進学校を中退した少年と出産して女子校を退学した少女と生後間もない赤ん坊。三人の暮らしは危うく脆弱なものにみえたが、それは決してママゴトなどではなく、生きることを必死に全うしようとする崇高な人間の営みであった。三島賞受賞。(「BOOK」データベースより)

◎坂道の途中に立っている

佐伯一麦は、プロフィールを紹介する必要のない作家です。今回取り上げる『ア・ルース・ボーイ』(新潮文庫)は、17歳から18歳までの自伝小説です。主人公「ぼく」(斎木鮮)は17歳の高校生。進学校のなかで、唯一の就職希望者です。英語の教師から「ア・ルース・フィッシュ」(だらしのないやつ)と罵倒され、高校を中退してしまいます。

「ぼく」には、ガールフレンドの幹がいました。彼女は女子高を選び、しばらく疎遠になっていました。そんなある日、幹が私生児を出産するという話を耳にします。産院を訪ね歩き、「ぼく」は幹と対面しますが、そのときには梢子という赤ちゃんが生まれていました。

「ぼく」は私生児をかかえた、幹と同居します。2人で職安へ行きますが、「高校中退」「子連れ」という理由で、就職先は見つかりません。ある日「ぼく」は、公園の電球交換をしていた沢田さんと出会います。「ぼく」は沢田さんの弟子となります。

「ぼく」には5歳のときに、お兄ちゃんと呼んでいた少年から性的暴力をうけたトラウマがあります。また母親から突き放されつづけた、深い心の傷があります。幹とは性的な結びつきがないまま、不安定な家族は生きるために努力をします。

仕事を通じて、少しずつ世間が見えてきます。居場所がなく、だらしない主人公は、「ルース」のもうひとつの意味である「解放された」心境を獲得します。そのうちに幹が失踪します。そして幹は主人公が18歳の誕生日に戻ってきます。「ぼく」ははじめて幹と結ばれます。

エンディングでは、ふたたび幹が消えます。ぼくは仕事をつづけながら、幹の帰りを待ちます。最後に中退した高校体育館の、電気点検をしている「ぼく」がいます。

――ぼくは十七、いま、坂道の途中に立っている。

こんな書き出しではじまる『ア・ルース・ボーイ』は、心に突き刺さる言葉の雨に満ちています。中沢けいは冒頭の文章について、つぎのように書いています。

――全編に流れる微妙な調整役を果たすのは、冒頭で紹介したような沈黙の表情を描写した短いセンテンスである。感想をさしはさむ余地のない一文が、そこに居るという状態だけを簡潔に告げる。その一文に含まれた沈黙が少年の矛盾した心理を細かく強靭に繋ぐ。(中沢けい『書評・時評・本の話』河出書房新社P142)

もうひとつラストについて、書かれた文章があります。紹介させていただきます。

――仕事に従事しながら少しずつ現実を受け入れていく主人公の姿が淡々と描かれ、それゆえに自らを解き放った少年の歓喜が直に伝わってくるラストにぼくは感動した。(坂東齢人『バンドーに訊け』本の雑誌社P33)

◎現代の私小説作家の代表格

佐伯一麦は1984年、「木を接ぐ」により海燕新人文学賞を受賞しました。「木を接ぐ」は、『ショート・サーキット』(講談社文芸文庫、初出1987)に所収されています。本書にはほかに、初期作品の「端午」「ショート・サーキット」「古河」「木の一族」の4篇が所収されています。

佐伯一麦は、典型的な私小説作家です。『ショート・サーキット』(講談社文芸文庫)は電気工時代の経験と家族が描かれています。そして『ア・ルースボーイ』から6年後に発表された『遠き山に日は落ちて』(集英社文庫)では、仙台での結婚生活が語られています。さらに近作『ノルゲ』(講談社文庫)では妻のノルウェー留学につきあった1年間の生活が描かれています。

私小説を書きはじめた動機にふれたおもしろい対談があります。紹介させていただきます。。

――佐伯:『ショート・サーキット』という作品が芥川賞の候補になりまして、ちょうど辻原登さんが「村の名前」で受賞したときです。このとき、あちこちで評が出たんだけど、週刊朝日だったかな、評者が「こんな電気工事の教科書みたいな小説のどこが面白いのか」みたいなことを書いていたんですよ。僕もまだ若かったから、「それじゃあ電気の配線だけで、面白いものを書いてやろうじゃないか」と(笑)、向こう見ずにも思ったところがあったんですよ。(池上冬樹「小説家になりま専科」2014.03.25)

日本の私小説は、田山花袋『蒲団』(新潮文庫、「山本藤光の文庫で読む500+α」推薦作)が元祖というのが定説です。本稿執筆にあたり、「私(わたくし)小説」の系譜もたどりました。平野謙は「新潮日本文学小辞典」で6ページにおよぶ論評を書いています。島崎藤村も広義では私小説作家になるのでしょうが、そこは「心境小説」というくくりで説明されています。

佐伯一麦は自分と家族をモデルとした、泥臭い私小説作家です。最近では西村賢太(「山本藤光の文庫で読む500+α」推薦作『暗渠の宿』新潮文庫)なども、その範ちゅうに入れられると思います。いずれにせよ佐伯一麦は、現代を代表する私小説作家なのです。

佐伯一麦と古井由吉の往復書簡のなかで、佐伯は私小説を執筆する苦労を次のように書いています。

――自分の「私」を書き始めていた頃の一番の難儀は、古井さんが書いておられたように、一篇の作品に没頭する間にも、私の環境が変わり、心境が変わりするので、「私」の口調がまるで安定してくれないという点でした。昨日まで書いたものを読み返すと、すでにその「私」が白々と見えてきてしまう。(古井由吉・佐伯一麦『遠くからの声・往復書簡』新潮社P57-58)

私小説は奥深いものです。
(山本藤光:2013.06.11初稿、2018.03.03改稿)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿