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G・バタイユ『マダム・エドワルダ』(光文社古典新訳文庫、中条省平訳)

2018-03-10 | 書評「ハ行」の海外著者
G・バタイユ『マダム・エドワルダ』(光文社古典新訳文庫、中条省平訳)

生田耕作氏の名訳で知られ、’60年代末の日本文学界を震撼させたバタイユ。三島由紀夫らが絶賛した一連のエロティックな作品群は、その後いくつかの新訳が試みられた。今回の新訳は、バタイユ本来の愚直なまでの論理性を回復し、日常語と哲学的表現とが溶けあう原作の味を生かした決定訳といえる。それぞれの作品世界にあわせた文体が、スキャンダラスな原作の世界をすみずみまで再現する。(アマゾン内容紹介)

◎一人称を削いだ新訳

ジョルジュ・バタイユは、1897年生まれのフランスの思想家であり哲学者です。生田耕作訳(角川文庫)を紹介するつもりでおりましたが、最近新訳が出たので、そちらを推薦作にしました。
理由は訳文の新しさにあります。生田訳は10回以上読み返しており、ほとんど細部まで覚えていました。それゆえ、光文社古典新訳文庫(中条省平訳)は、別の作品の感じがしたほどです。「おれ」という一人称を極力削いだためだと思います。

ちょっと2つの訳の違いをみておきます。主人公が酒場を出て、
娼館のある街へと向かう場面です。

――孤独と暗闇とがおれをすっかり酔っぱらわせた。人気のない通りで夜は裸になっていた。おれも夜のように裸になりたかった。ズボンを脱いで、腕にひっかけた。おれの股間と夜の冷気とを結びつけたかったのだ。しびれるような自由の境地にひたっていた、しろものが大きくなるのが感じられた。屹立した器官をおれは片手に握りしめていた。(生田耕作訳P11―12)

――ひとりぽっちで、猥褻な気分も高まり、酔いはきわまった。ひと気のない通りで、夜が裸になっていた。私も夜とおなじように裸になりたくなった。ズボンを脱いで、腕にひっかけた。夜の冷気に馬乗りになりたかったのだ。目もくらむような自由が私を包んだ。自分が大きくなったように感じる。手は硬直した性器をつかんでいた。(中条省平訳P8)

バタイユは、ニーチェの継承者といわれています。大学時代に先輩に勧められて『青空』(昌文社)を読みました。正直にいうと、難解で読んでいても、ハテナマークが点滅し続けていました。しかしえぐられるような、言葉の重みは感じられました。『青空』は文庫化されていません。
G・バタイユ『マダム・エドワルダ』(光文社古典新訳文庫、中条省平訳)は短い作品です。ただし『マダム・エドワルダ』には、長い「序文」が存在しています。これは光文社古典新訳文庫にも角川文庫にも収載されていません。唯一所収しているのは、ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』(ちくま文庫、酒井健訳)です。章のタイトルは、「第七論文『マダム・エドワルダ』序文」となっています。このなかでバタイユは、次のように書いています。

――この短編小説では、エロティシズムはざっくばらんに描かれていて、ある裂け目を意識することへ読者を開かせているのだが、それだから私にとってその序文は、悲壮な呼びかけ(私はそう欲している)の機会になっている。(同書P453)

◎文章が混乱している

 バタイユ研究の日本の第一人者・酒井健は、著作『バタイユ入門』(ちくま新書)のなかで、バタイユの難解さについて次のように書いています。

――当時、仏文学者の間で、バタイユは難解な現代の書き手三傑のなかに、そのトップに位置づけられていた。(名前が皆Bで始まるところから3Bと呼ばれていた――残り二人はブランショとベケット)。バタイユ思想の理解が困難であった理由は、三つある。まず第一に、彼の著作がきわめて多くの分野に渡っていること、第二にヘーゲル、ニーチェといった哲学者との影響関係がかなり複雑であること。そして彼自身の文章が混乱している三点だ。(同書P013)

 バタイユを読むには、酒井健が指摘する3点目を心したいものです。わからなくて当然なのです。なにしろ筆者が混乱しているのですから。
『マダム・エドワルダ』は、30ページほどの短い作品です。
私はいつも言葉の威力に圧倒されながら読んでいます。

『マダム・エドワルダ』のストーリーについて、三島由紀夫が触れている文章があります。引用させてもらいます。

――バタイユの『マダム・エドワルダ』は、神の顕現を証明した小説であるが、同時に猥褻をきわめた作品である。娼家「鏡楼(レ・グラース)」で、自ら神と名乗る娼婦マダム・エドワルダを買った「おれ」はそのあと、裸体の上から黒いドミノを直に着て、黒い仮面をつけてさまよい出るエドワルダのあとを尾行(つ)け、その発作を目撃し、これをたすけて共に乗ったタクシーの中で、運転手に馬乗りになって交接するエドワルダの姿に、真の神の顕現を見るという物語である。(『三島由紀夫のフランス文学講座』ちくま文庫P212)

 三島由紀夫はバタイユを高く評価しています。また岡本太郎、花田清輝が中心になって、椎名鱗三、埴谷雄高、野間宏、佐々木基一、安部公房らが会員として参加していた「夜の会」の勉強テキストとされてもいました。特に岡本太郎はパリでバタイユと接触しており、思想的に大きな影響を受けています。

◎奇妙な追いかけっこ

少しだけバタイユに触れている日本の作家の論文を紹介しておきたいと思います。いずれの引用文も難解ですが、バタイユを理解するうえでは貴重なものです。

――かって、バタイユは、存在における死、暴力、暗黒への願望の表出としてのみとらえられている頃があった。バタイユが実存主義の列に加えられ、反倫理主義の一翼を担う者として、短絡的に理解されていた時代である。/ついては、吉本隆明が論じたように、行為を実体ではなく関係の世界において認知することを強調し、エロティシズムもまた広義の幻想の所産であることに気付いていた思想家としてとらえられた。(栗本慎一郎『反文学論』光文社文庫P109)

――彼(バタイユ)は外科医がゴム手袋をはめて患者の臓腑の中へ手をつっこむように、きわめて手際のよい認識で、底なし沼の中へちょっと手をつっこんで見せたにすぎない。しかし深層心理学の方法とはちがって、バタイユの長所は、エロチシズムが、現在ばらばら分裂して破片になって四散した世界像を、なお大根(おおね)のところで統一原理として保持している。(三島由紀夫『文学論集2』講談社文芸文庫P218)。

――マダム・エドワルダとは、本来なら「おれ」の心の空虚を埋めるはずのセクシャリティーが、一種のエクトプラズマとなって、外側に飛び出し、そこで、女という形をとったものだと、いいかえれば、「おれ」は「おれ」自身の空虚のあとを追っているのです。ですから、(中略)奇妙な追いかけっこは永遠に終わることはあリません。(鹿島茂『悪女入門』講談社現代新書P231)

 このほか吉本隆明『書物の解体学』(講談社文芸文庫)にもバタイユに関する論文があります。岡本太郎にもバタイユに関する著述があります。残念ながら手もとにありません。もしも『マダム・エドワルダ』が面白いと感じたら、読書の範囲を広げて見てください。
山本藤光2017.07.01初稿、2018.03.10改稿

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