80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

祖父と祖母

2014-04-22 15:45:29 | 思い出
母方の祖母の話からである。

祖母の父親は徳川将軍家の旗本で、徳川様の大政奉還の後、相良に

土地をいただいて、地主さんとして暮らしていたようで、祖母は

その長女として生まれ、若いときは、何とか小町と呼ばれるよう

な、すらりとした美人であったらしい。

祖母がお嫁入りする時には、一週間もお祝いの宴が続いたと伝え

聞いているが、当時の多くの武士は、暮らす術を知らず、日がな

一日大酒を飲んで過し、土地の売り食いで、終には没落するという

パターンが多かったようだが、 その後、祖母の父親も、同じよう

な道を辿ったようである。

河村という家に嫁いだと聞いているが、どうもだんな様が若くして

亡くなり、祖母は生まれたばかりの久子と言う女の子を残し、家に

帰されたようである。

 その後、どういう経路を辿ってかわからないのだが、金沢から

お江戸に出てきた祖父が見初め、年上だった祖母は、最初は断り

続けていたらしいが、終に結婚し、娘三人を産んだ。

祖父は加賀藩の下級武士の三男坊として生まれ、何とか生活の道を

見つけようと、お江戸へ出てきて、横浜で、キリスト教会の牧師さん

に英語を教わり、横浜で、スーべニヤ(外人向けのおみやげ物店を

開いたそうで、その一方、山手(山元町あたりらしい)に、大きな

養鶏上を経営しはじめて、それらが大当たりで、祖父が、毎晩家に

持ち帰るお金を、人力車で、銀行に運ぶのが祖母の大事な仕事に

なったと聞いている。

祖母は、祖父のお兄さんの子供達の面倒を次々と見て大変だった

ようだが、中の一人が後に画家となったが、はじめ祖父は反対し、

画家として生活はなかなかできないだろうからと、ボーイさんの

仕事を探してやったところが、その甥は、他人は自分の絵を評価

してくれるのに、おじは評価しないで、ボーイさんの職を世話した

と恨んでいた。

そもそも絵を書く人は描いているときは夢中で時間を忘れるから、

食事の時にもみんなで揃って食事をするということができない。

グルメだった祖父はおいしいものを熱いものは熱いうちに食べたい

ので、みんなに早く揃って食卓に着かせたいのに、なかなか

その甥が来ないので、冷めてしまうから、その甥は後で、女中さん

たちと一緒に食べさせるようにしたところ、女中さんと一緒に扱った

とうらんで、日記に書いていたのである。

祖母はそんな間に入って、大変だったようだが、世話になる方の

人間と言うのはかってなもので、そんなことは理解せず、感謝すら

していない。

その後関東大震災で丸焼けになり、何もかも失って、祖父は貿易業

に転向した。祖父の家には中国人だとか外人さんたちが出入りしていて、

応接間には、いろいろなタイプの椅子が置かれていたし、おしゃれな

外人さんと付き合うためか祖父の家にはあまりほかの家には見られない

祖父のお化粧台と言うのがあって、大きな鏡の前にはいろいろと男性用

の香水などが並んでいた。



クリスマスには大きなツリーが飾られ、その下に私たちへのプレゼントが

置かれ、料理の上手な叔母は大きな七面鳥を焼いてくれたり、おいしいマ

カロニ入りのスープなどいろとりどりのの珍しいものが並んだものである。


私が祖父をすばらしいと思うのは、ご接待でおいしいものをいただいた

後には、必ず同じものを折詰めにしてもらって家族に食べさせるのが常で、

自分だけで楽しむのが嫌いな人であった。

祖父は本牧のあたりに次々と貸家を増やしていったのであるが、それも

後に戦争ですべて失ってしまった。

わたしが覚えている頃の祖母は、結核だったらしく、いつも8畳の

茶の間で寝ていたが、それでも、家で起こっていることを全部

的確に判断しているようで、祖父の身の回りのこととか、家の事

すべて、伯母(母の姉)に指図をしていて、家族の動向とか、

金ちゃんという静岡から出てきたほっぺの赤い女中さんや、時折来る

庭師の岩さんのことなど、ちゃんと把握していたようであった。

当時小学校の低学年だった私は子供心にすごい人だなあと、いつも

感心させられていたのである。

その祖母が死期を感じたのは、多分私が女学校2年生のときだったと

思う。 伯母に頼んで、当時食料の乏しい時代だったので、何か、

孫たちに食べるものを残してやりたいと思ったらしいが、比較的

上手に食べ物を手に入れていたような伯母でも、その頃では至難の業

だったようで、やっと手に入れたのが、サツマイモをふかして、

薄切りにして干した芋切干であったのである。

孫達7人が祖母の枕元に呼ばれていくと、新聞紙を何枚も広げた上

に切干が、同じような量に分けられていた。

まず伯母が私たちに、祖母から頼まれて、切干を買ったことを話し、

祖母は痩せたか細い手を布団の中から出して、わたし達一人一人と

握手をしてくれ、伯母が切干芋を手渡してくれた。

私たちは、なんだか祖母の気持ちを思いやって、ひどく緊張して

いたのを覚えている。

その後2,3日して祖母は息を引き取った。

ずっと枕元で、祖母の世話をしていた母が、おばあちゃんは、昔、

婚家に置いてきたチャーチャン(久子)のことをずっと思って会いたがって

いたんだわね。  熱に浮かされながらもずっとチャーチャンの名前を呼

び続けていたわと言ったのである。 それから何十年、私は時折、その言葉

を思い出し、婚家に可愛い娘を置いてこざるをえなかった祖母の苦しみを

噛み締めなおしている。



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