昨日というより今日の深夜、土曜の自由さにかまけて、かっての宿敵湯前中学のことを調べていたら、
その偉大なる指導者の「福島信也先生」のホームページが見つかったことから、つい50年も前に封印していた小箱を開けることになってしまった。
山間いの町のリード合奏による全国挑戦の快挙は、ついに映画化されたほどに町を挙げて盛り上ったというのだから、やはり私達の鹿島とは大きなスタンスの違いがあった。
一方私達はといえば、合奏部のメインとなる楽器アコーディオンの蛇腹は破れ、空気漏れでスースー、フカフカいうのを、
倉崎先生は修理屋よろしく上手にフセて治してくれていたくらいだから、
当時、音楽教育に使うような予算はかなり少なかった筈である。
そんな中で、私達は九州ナンバーワンをめざしていたのだ。
闘う武器はタダ一つ、練習のみ。
明けても暮れても、練習あるのみ。
3年生が代わりバンコにタクトを振り、来る日も来る日も練習に明け暮れたものだ。
しかも、練習で勉強が出来なかったという言い訳は倉崎先生が一切許さなかったから、私達はある意味必死だったのである。
貧乏クラブで楽譜も買えず、先生は難解なクラシックのアンサンブルを自分で私達のような素養の無い生徒のために編曲してくれていた。
しかも福島先生のような音楽教師ではなく、理科の先生だったのだから、凄いとしか言いようが無い。
今年88歳、米寿を迎えられる今でも鹿島マンドリンクラブのご指導をなさっているのだから、頭が下がるというものである。
そのお祝いを兼ねて久しぶりに集まろうという話になっている。
3月29日(日)鹿島市高津原の「かんらん」という集会場だ。
後輩の悦ちゃんから、往復はがきのプリントアウトを託されてしまったから、これから、ご案内をせねばならないのだ。
さて、鹿島中合奏部は九州大会準優勝を連続して戴くと、あちらこちらからお呼びがかかるようになり、演奏旅行ならぬ他校訪問や市内のイベントでも出演することが多くなった。
この写真は鹿島市民会館のコケラ落としのコンサートのもの。
今は亡き八代生ちゃんが写っている。
ジョコンダの「時の踊り」のマイナーに転調した哀しげなメロディーは、彼女のアルトアコーディオンが担当していた。
高校時代に帰らぬ人となったのだが、彼女のお葬式でその演奏テープを流し、涙も一緒に流したことを覚えている。
これは県大会でセビリアの理髪師序曲を演奏している時のもの。この年は思わず九州大会で勝ったと思ったものだ。
NHKの学校音楽コンクール器楽合奏の部は昭和38年から県大会で連続6連覇して九州大会でも一度だけ3位であったものの、あとの5大会はすべて準優勝であった。
昭和42年までで、この話は終る。リード合奏は戦後復興の役割を終えたのか、世の中は吹奏楽流行となって学校音楽コンクールから器楽合奏の部は消えてしまったのである。
そして倉崎先生も他の学校へ移動されてしまい、やがて鹿島中学校自体が北鹿島中と能古見中と統合されてしまい、鹿島西部中となり、無くなってしまったんである。
その意味からも、今は無くなってしまった鹿島中学校の正面玄関の前のソテツの木が懐かしいではないか。
これらの写真は、私の先輩木原さんから送って頂いたもの。
この先輩の合奏部に注がれた愛情は、言葉に尽くせないほどに深く、しかも精力的で且つ的確であった。
さて、木原先輩から教えて頂いた電話番号を頼りに、おそるおそる宿敵、湯前中学の指導者福島信也先生の人吉のご自宅に電話をかけてみた。
「突然失礼します。NHK学校音楽コンクールでエントリーしていた佐賀県代表の元鹿島中学の合奏部に在籍していたものですが・・・・・。」
「鹿島中」と云った私の言葉に、先生はしばらく絶句された。
意外にも、後から振り払っても振り払っても聞こえて来る足音がとても気になっていたとのお話であった。
「合奏部OBの皆さんといつの日にか湯前町を訪れてみたいと思っているのですが、その際には当時の部員の皆さんや先生とも是非お会いしたいと願っております・・・。」
純粋な熊本弁で朴訥にお話になる。
熊本県では音楽分野の大家といわれる凄いお方なのに、全然飾らない温かいお人柄のようだ。
「ああ、いつもは大体は家に居て、自宅の音楽室でピアノを弾いとりますけん、いつでんヨカです。いらっしゃい・・・・。」
携帯からかけたのだが、小さな糸で繋がっているように感じた。
さしずめ音楽の糸電話といった趣であったのである。