風竿の「人生の達人」烈伝

愛すべき友、仕事・趣味の磯釣り・ゴルフ・音楽、少しの読書などにまつわるあくまで「ヒト」に重点をおいたブログです

路地裏の少年

2011年10月31日 22時22分27秒 | 風竿日記

その昔、博多まで汽車で4時間かかっていた頃の話。

それは私がまだ小学生の頃、子供たちは皆等しく、アウトドア派なんであった。

毎日学校から帰ると、ランドセルを放り投げ、県営アパートの公園に集合しないと、近所の悪ガキ同盟の闇の掟違反になってしまい、仲間はずれになってしまうのだ。

そこではビー玉、ぺチャ(都会ではメンコと云ったらしい)

缶ケリ、コッキン、チョッチョッパ、馬乗り、そして極めつけは三角ベースボール、遊びの天才たちは日の暮れるまで友情を確かめ合ったんである。

雨の降る日はアパートの階段の下でぺチャに興じた。

夏休みはまさに遊びのパラダイス、近くの二級河川である中川で、真っ黒になって泳いだものだ。

6年生を先頭に単位で旗を立てて水泳に行った。

随分と深みでも泳いだものだが、不思議と溺れるような子供は誰一人として居なかった。

そしてそこには儒教思想に裏打ちされたような、先輩は絶対無比なもの、

目上を敬い、年下を可愛がり護ってやるという、ガキなりのマグナカルタが自然と出来上がっていた。

       

テレビ放送が始まると、その路地裏の少年達は徐々に減っていき、いつのまにか塾通いなどという、実に子供のためにならぬものが流行りだした。

私はといえば、ついぞ塾などというつまらない場所には行ったことがなく、先の母が生きていた小1までは、絵画教室と習字を習い事として行かされていたくらいのもの。

ズボンのポケットはビー玉をたくさん入れすぎて、いつも穴が開いていたし、ズックの親指は成長のご愛嬌なのか、親指のところがいつも口を開けていた。

 

9月の終わり、実家を任せていた弟が亡くなり、その頃の悪ガキ同盟のダチが葬儀の手伝いに来てくれた。

悪ガキはそのまま「チョイ悪オヤジ」に変身していたが、当時の鉄の掟はまだ潜在意識の中で生きていた。

何にも云わず、黙って手伝ってくれたんである。

長い年月を経て、お互いの色んな人生行路を歩んできたことが、顔の皺に表れていた。

今、県営アパートは取り壊され、病院の敷地となってしまったのだが、そのうち「おーいあそぼ・・・・」と声をかけたらすぐに昔のメンバーが集まりそうな、そんな気がしてならない。

      

秋の夕日はつるべ落とし、この季節になるといつも少年時代の、あの路地裏の少年達のことを思い出すのである。

一体あの少年達はどこに行ってしまったのだろうか。