21世紀航海図;歴史は何も教えてくれない。ただ学ばない者を罰するだけ。

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「宗教」を超えられない科学

2006年08月20日 12時50分35秒 | Weblog
 科学の根底にあるのは、「客観的な物証」と「自由な議論」だ。物証が無ければ科学的裏付けが出来ないし、議論無しには科学は発展しない。しかし残念ながら、この2つは「宗教」を超えられないものである。
 まず、どれだけ実験技術が発達したとしても実験車が人間である以上、実験結果が「客観的」になるのは難しい。実験には失敗がつきものだし、機器によって精度も異なる。それが「理論値の間違い」を表すのか「実験の失敗」を表すのかを判断するのは、人間だ。時にこれは、人の主観/経験/主義/生活環境/宗教に左右される。
 「自由な議論」は更に「宗教」を超えることが難しい。自由な発想は時に社会に影響される。特に、感情論に流れやすい話は厄介だ。例えば「天皇論」等となれば、科学の世界ではない。XとYでもめているとき、双方は相手の意見に耳を傾けようとしない。もちろん、そこに「議論」なんてモノは存在しないし、科学的根拠も存在しない。そこにあるのは、客観的の「ような」証拠とその証拠に疑問の投げかけられない哀れな知識人達だ。
 大多数の宗教論理に反する個人の発想は無視される。どれだけ正しくとも、社会に認められないような科学は役に立たない。権力者の意向に添うものだけが科学たるのだ。
 おっと、誤解が生じてもらっては困る。「ニセ科学」の横行によって被害を被るのは、あくまでそれを見破れない「一般市民」であって、「科学者」ではない。ガリレオの例と思い出してもらえれば分かるが、彼は「毎日、星をチェックすることが出来る時間的余裕がある」ほど豊かな生活をしていた。それは彼の地動説が否定されたあとも変わらない。その一方、当時の市民の皆さんは「教会」によって自由を奪われていたでしょう。。。。。。。。

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