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オペラ、バレエ、歌舞伎、文楽などの鑑賞日記です

メトの「オテロ」

2017-04-14 17:25:49 | 能・狂言
2015年に新演出で上演された「オテロ」を観る。少し前の上演だが、やっと衛星放送で放送してくれたので、遅ればせながら見る事が出来た次第。これまでのメトの演出は、コスチューム劇としてまるでスペインみたいな昔風の衣装や、割と写実的なセットで上演されていた。今回の新演出は、バートレット・シャーの演出で、良い意味でも悪い意味でもモダンな舞台。ごちゃごちゃと昔の衣装が出てきたりしない分だけ、シンプルでドラマが浮き立つような、クレバーな演出だった。

バートレット・シャーは、ブロードウェイのミュージカルの演出も手掛けていて、イタリアを舞台にした「広場での光」でトニー賞候補となり、「南太平洋」の再演でトニー賞の演出賞をとっている。こういう風に、ブロードウェイのミュージカルと、オペラが融合できるのが、メトロポリタン歌劇場の強みの一つだろう。

主演のオテロにはアレクサンドルス・アントネンコ、妻のデズデモーナにはソニア・ヨンチェーヴァを配し、歌の面では素晴らしいの一言。小柄な指揮者ヤニック・ネゼ=セガンの指揮も中々乗っていた。衣装はモダンだが美しく時代を超越した印象。ガラスで作られた装置もなかなか効果的だった。

ところで、シェイクスピアの「オセロ」という作品を観たのは、ローレンス・オリヴィエの映画だったから随分と昔のことになる。その時のオリヴィエは真っ黒な黒人となって登場している。僕はこの映画を見てから「ムーア人」というのはアフリカの黒人のことだと思っていた。だって、そのころに発売された「オセロ」ゲームというのは、白と黒が対比されているゲームで、シェイクスピアの芝居にヒントを得たゲーム名と聞いた覚えがある。

今回の、メト版の「オテロ」では、まったく黒くなく白人がそのまま演じている。人種差別にうるさくなった昨今だから、こういうのもありなのかなと思ったが、昔のメト版を見ると少し浅黒くメイクしている。そもそも、どういうのが正しいのかと疑問に思う。

オテロは、イタリアのヴェネチアに雇われた将軍で、キプロス島の統治者をしている。芝居は異教徒(イスラム)との戦いに勝利して戻ってきたところから始まるわけだ。キプロス島はトルコに近く、今でもギリシャ系とトルコ系に分かれているぐらいだから、いろいろと複雑な歴史があるが、ヴェネチアが支配していたのは15世紀末から16世紀後半にかけてなので、その時代の話だといえる。また、16世紀後半以降はオスマン・トルコ領となるので、オテロの戦った相手はオスマン帝国なのだろうか。不勉強で分からない。

オテロの妻のデズデモーナはイタリア美人で、浮気の相手ではないかと疑われるカシオもイタリア人だ。オテロはムーア人ではあるが、実力によりヴェネチアの将軍となっているので、イタリア人同士で不倫していないかと心配になるわけだ。イタリア人ならばそういうこともあるかも知れないと、思わせるものがある。


ところで、ムーア人を広辞苑で調べると、「マグレブのイスラム教徒の呼称。元来はマグレブ先住民のベルベルを指す」という趣旨が書いてある。もし、オテロがイスラム教徒ならば、なんでイスラム教徒と戦うのかわからない。当時からシーア派とスンニ派に分かれて戦っていたわけでもないだろう。ということは、元来のベルベル人ということになる。

ベルベル人というのも良く分からないが、人類学的に言うと、コーカサイド(白人系)であり、ネグロイド(黒人系)ではないらしい。ただし、熱いマグレブで生活していたためか、実際に見ると少し浅黒い印象がある。イヴン・ハルドゥーンの「歴史序説」にも熱い地方で暮らす人々は肌が黒くなると書いてある。それでも浅黒いだけで、決してサブ・サハラの黒人のように真っ黒いわけではない。

そうすると、ローレンス・オリヴィエの映画のように真っ黒な黒人というのは、本来的には間違いで、浅黒いメイクぐらいがちょうど良いような気がするが、今回のオテロは全く肌は色を変えていなかった。こういうのは、科学的に正しく演じる必要はないと思うが、今回は観ていて気になった。

もう一方の、イスラム教徒を指す表現だが、劇中ではサラセン人という表現も出てくるので、これはイスラム教徒を指すと考えてよいような気がした。もう一度、シェイクスピアも読み直す必要がありそうだ。