青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

OS劇場 ~大阪でも別格の映画館

2021-05-16 | 昭和の映画館

大阪はキタもミナミも、どんどん映画館が閉館し、今ではシネコンばかり。かつてのように収容人員数千人という大劇場は姿を消しました。僕の青春時代1970~80年代において、大阪で1番の映画館と言えば、「OS劇場」でした。

シネラマと呼ばれた大きなスクリーンに抜群の音響効果。映画は大きなスクリーンで観るもの・・そういうことを言う人には、シネコンや小さなハコではなく、OSのような巨大スクリーンを味わって欲しかった!

「2001年宇宙の旅」「未来惑星ザルドス」「イルカの日」「ローラーボール」「栄光のル・マン」「パピヨン」「明日に向って撃て」、阪急プラザ劇場で1度は観た「スター・ウォーズ」を、ここの大スクリーンでもう1度観ました。(笑)「ディア・ハンター」も懐かしい。ディア・ハンター以前は、お金が無かったので、親父を誘って映画代を出してもらったことも多々ありました。

OS劇場が他に比べて格上の存在感を醸し出していたのは、この劇場だけが70年代から「全席指定」で、「指定料金」を取っていたからだと思います。リバイバル上映や、期待の新作の上映ローテーションの谷間には、スクリーンの横幅を狭く縮めて上映することもあり、その時だけは指定席無し、入れ替え無しでした。

大好きだったジョン・ウェインの遺作「ラスト・シューティスト」を公開した1979年は、初日の初回上映を観るたびに、高校を休んで観に行きました。テープレコーダーを持ち込み、初めから最後まで全部音を録音して来たことは忘れられません。しかも2回観ました。残念ながら指定席なしの小さ目のスクリーン設定でしたが、中央の1番良い席に座り、ガラガラの貸切状態で鑑賞。一緒に行った父親は、ここでウェインの「アラモ」をシネラマで超満員の中で鑑賞しているだけに、「西部劇も終わった」と嘆いていました。

今では「オーエス劇場」と検索すると、出て来るのはストリップ劇場だったりするのですが(笑)、僕たちのOS劇場は、今のナビオの向かい、曽根崎警察の並びにありました。最後は劇場ロビーの面積を、レコード屋にしたり、ジーンズ屋にしたりと収益アップを狙う努力もしていました。

写真は1987年にナビオ阪急の前から、道路を挟んで撮影したOS劇場の姿です。

昭和22年7月31日、名作「心の旅路」の封切りでスタート。昭和29年9月に火事で全焼。その後12月に「シネラマ」上映館として、僕の知る姿で蘇りました。その時の公開作品は「西部開拓史」。親父がその時観に行き、パンフレットを今も持っています。

「ターミネーター2」「愛は危険な香り」を観た後は、映画館から離れ、1991年2月に閉館前のシネラマ上映リバイバル特集で、「ベンハー」と「サウンド・オブ・ミュージック」を観たのが最後で、1991年2月に閉館。長い歴史に幕を引きました。



僕より下の年代の人は、HEPナビオのスグ北側にある劇場をOS劇場と呼びますが、それは僕の時代には「ニューOS劇場」という名前だった劇場です。OS閉館後に、ニューOS劇場をOS劇場と改名したのです。この記事にそういう理由で、違和感をお持ちだった方もいらっしゃるかも知れませんね。



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