三多摩の鐘

The Bells of San Tama -関東のキリスト教会巡り-

晴佐久昌英神父を批判する

2014年03月23日 | 東京のカトリック教会
カトリック多摩教会聖堂
(住所:東京都多摩市聖ヶ丘1-30-2)

「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(ルカ13・3)、「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」(二テモ4・3-4)。

今月15日、及び22日付の『東京新聞』朝刊に、晴佐久昌英神父の寄稿が掲載された。「宗教の普遍性」という表題だが、内容は従来の「福音“万人救済”宣言」である。そこには「救い」「必ず」「全て」の文字が躍り、聖書に替えて「キリスト教憲法」(15日付同紙)や「神仏ご自身の愛のことば」(同22日付)が登場する。「それでも、私は救われているとしか思えない」という晴佐久神父は、「キリスト教は『あなたはもうすでに、救われている』と宣言している。神は全ての人を愛しており、必ず救うからである」と結論付けた。

だが、『東京新聞』の賢明な読者は次のような疑問を抱くに違いない。「ヒトラーやスターリンも救われていたのか」「(カトリック教会が認めない)同性愛者も救われているのか」。確かに、神は全ての人の救いを望んでおられるが(一テモ2・4)、必ずしもそれが「無条件」ではないことは、聖書の多くの言葉(注1)、カテキズムの教え(注2)からも明らかだ。私たちが「救われている」のであれば、イエスが「地獄」の恐ろしさを強調されることはなかったし、カトリック教会が私審判や公審判、煉獄や地獄を教える必要もない。

晴佐久神父の「福音“万人救済”宣言」や説教(というよりも「演説」)は、人間にとって「都合の良い言葉」だけで潤色され、聖書の「不都合な真理」については沈黙する(注3)。だが、それは「一時的な平安」「その場しのぎの癒し」による「救われた気分」という錯覚に陥らせることはあっても、「霊魂の救済」とは成り得ないだろう。「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」(二コリ5・10)

奇妙なことに、晴佐久神父は「どのようにして救いは実現するのか」について曖昧となる。ただ「救われる」と力説しているだけなのだ。この点、正教会のカリストス・ウェア府主教が「三つの大切な問い」を通して、「救いとは何か」を考える機会を提供された(注4)。第一は「私たちは何から救われるのか」(出発点)、第二は「私たちはどのように救われるのか」(道筋)、第三は「何に向かって救われるのか」(旅の終局)。何となく「救われている」と浮かれていた人々は、それが単なる「感傷的信仰」と気づくのではないか。

「あなたは救われたのですか」という質問に対し、ウェア府主教は次のように答えている。「『はい、救われました』とはとても答えられません。そんな風に答えたなら、救いは成就した事実、実現された事実として、もう既に今ここにあることになってしまいます。(中略)ちょうどよいのは、『救われました』と答える代わりに『神の慈憐と恵みによって、救われつつあることを信じています』と現在進行形で答えることでしょう」。さらに、「師父シソエスにならって答えましょう。『悔い改めを始めたかどうかさえも疑わしいのです』と」。

日本のカトリック教会は晴佐久神父の「福音“万人救済”宣言」に迎合しつつある。そこでは神よりも人間の都合が優先され、「フレンドリーなイエス」を拝み、十字架は単なるアクセサリーだ。「何だかよく分からないが、私たちは救われた」と小躍りしている人々は、「復活の栄光」よりも目先の「ご利益」を追い求めている。「公会議の精神」「日本人の感性に合った宣教」の掛け声と共に、こうした「救い」の世俗化は避けられそうにない。私はイエスの全てを伝えようとしない晴佐久神父とその「福音“万人救済”宣言」を批判する。

「天を仰げ、地の為に之(これ)を失ふな。地獄を眺めよ、一時の快楽(たのしみ)の為にその中に入るな。イエズス・キリストを思へ、世間の為に主を否み奉るな」(聖フランシスコ・サレジオ『信心生活の入門』より)


(注1):『聖書』マタイ7・21、マタイ10・28、マタイ13・40-43、マタイ25・41-46、マルコ9・43、黙示21・27など。
(注2):『カトリック教会のカテキズム要約』135項、171項(但し262項)、208項、210項、212-214項など。
(注3):2013年7月21日付『カトリック新聞』投書欄で「イエスの厳しい言葉を重く受け止めていない」と指摘された晴佐久神父は、「そういう言葉だけ取り出して説明することで、どれほど多くの人が苦しんできたかを考えてほしい」と反論(同日付「説教」より)。だが、晴佐久神父も「都合の良い言葉だけ取り出して説明」している。「多くの人が苦しんできた」以下の発言は同調圧力を伴った「おためごかし」だろう。晴佐久神父は「福音“万人救済”宣言」正当化のため、聖書の言葉に恣意的な「優先順位」をつけている。
(注4):「三つの大切な問い」の回答は、ウェア府主教著『私たちはどのように救われるのか』を参照。正教の「原罪」観は異なるが、本書は「救いとは何か」についての有益な示唆に富む。ご一読をお薦めする。

◆主な参考文献など:
・「カトリック教会のカテキズム要約」 日本カトリック司教協議会監訳(カトリック中央協議会・2010年)
・「カトリック要理(改訂版)」 カトリック中央協議会編(中央出版社・1992年版)
・「信心生活の入門」 聖フランシスコ・サレジオ著、戸塚文卿訳(日本カトリック刊行会・1931年)
・「私たちはどのように救われるのか」 カリストス・ウェア主教著、水口優明、松島雄一共訳(日本ハリストス正教会西日本主教教区教務部・2003年)
コメント (36)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 横浜ハリストス正教会 | トップ | 大斎節第3主日の聖餐式 »

36 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (森の都)
2014-03-23 15:06:24
はじめまして。

「とても」芯のある司祭様だとは思いますが、お祈りが必要なようには思います。その範囲でのかかわりは礼儀に反しないと思います。

よい司祭にますますなられるように、周りが配慮しなければならないこともあると思います。カトリックの信者としての周りの配慮が欠けていることもあります。

わたしには、「そのような?霊に」憑かれているかのように見えます。あの独特の雰囲気にはわたしもびっくりさせられました。

このような真摯な批判は、なかなか本人には届きにくいです、熱心なお祈りの心のみが、奇跡を起こし、適切な言葉を表します。

失敗や不幸・悲劇を目の当たりにすることによって、信仰深い人達はそれで考えが変わっていきます。その中で伝統に出会うことで自分が今まで欠けていたこともわかってきます。それ以外では変わらないと思います。しかし今の日本の教会はキリスト教の深い霊性に出会う事がなかなか出来なくなっています。教会が色々なことをやめてしまったからです。

それに日本の社会は恵まれているので難しいと思います。

返信する
聖ヒエロニモの言葉 (エウティコ)
2014-03-24 12:29:00
森の都さん、はじめまして。

「福音を語りまくる」という晴佐久神父は、聖書の言葉で直接「福音を宣べ伝える」ことを避けているように見えます。
「福音“万人救済”宣言」を“合憲”とするために、「キリスト教憲法」なるものを起草したり、果ては阿弥陀仏の本願力にすがって(?)「神仏ご自身の愛のことば」を創作してしまう。さらに、主日説教は晴佐久神父の「個人的な感動体験」や「一週間の“救済”事例報告」がメインとなり、当日の福音朗読箇所について殆ど触れない場合さえもあります(注)。

昨年の『カトリック新聞』で80代の外国人司祭が指摘されたように、晴佐久神父はイエスの厳しい言葉を重く受け止めようとしません(なおかつ、晴佐久神父はこの先輩司祭の忠告を謙虚に受け止めず、主日説教を潰して長々と反論)。しかし、信者や求道者にはその「厳しい言葉」の本当の意味について、正確に「知る権利」があります(晴佐久神父の「キリスト教憲法」では保障されていないのでしょう)。なぜなら、「聖書を知らないことは、キリストを知らないこと」(聖ヒエロニモ)になるからです。それでは「救われません」。

トマス・ア・ケンピスはイエスの厳しい言葉をストレートに受け止めました(光明社版『キリストに倣いて』第2巻12章参照)。しかし、晴佐久神父はその言葉から逃避しています。「聞かなかったことにしよう」という態度で。私は「福音“万人救済”宣言」に熱狂しつつある日本のカトリック教会に失望しています。


(注):前教皇ベネディクト16世『使徒的勧告 愛の秘跡』(カトリック中央協議会・2008年刊)より。「神のことばが重要であれば、説教の質をよりよいものとすることが必要です。(中略)叙階された役務者は『聖書に関するふさわしい知識に基づいて、説教を注意深く準備しなければなりません』」・・・・。つまり、晴佐久神父の説教は「演説」です。
返信する
Unknown (森の都)
2014-03-24 23:55:51
健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすこと・・・・・・。

洗礼を結婚に譬えることがありますが、ぴったりの譬えだと思います。

洗礼の時いろいろ誓いますよね、あれの言葉の意味は上の結婚の誓いの引用と同じだと思います。

健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、・・・・・神の愛を信じ続けますか。という問いがそこにはあるのだと思います。


エウティコはいつまでも結婚しない、いつまでも皆の前で愛を誓うことを拒んでいる。



いつまでも結婚しないことは恥ずかしい事だ。




相手を辱めているということはあり得る。



返信する
Unknown (森の都)
2014-03-25 01:05:38
ご指摘のお説教を読ませて戴きました。

わたしは個人的に司祭の神学生時代(結構人が傷付くのを頓着せずに、神様のためにはっきりものを言うきつ~いお方でしたっ☆)を振り返り「へぇ、成長したなぁ」と正直くすくす笑ってしまいました。

今の司祭は、「鬱」の方のために人間として「自分が」言ってしまいたい事を言わないで、その方に必要なことを聖書から選んで話しをする方になったようです。

「人々が神の愛をこそ」信じられるように、頭を尽くし、心を尽くし、魂を尽くし、くたくたになるまで力を尽くしていると思いますよ。

ただそれは鬱ではないフツーの生活を送る信者さんには同じように受け取られないのでしょう。確かに彼らにはもう少し違う話もしたほうがいいこと「も」ありますけど。

そうであっても、それも、神の愛を・・・・・充分過ぎる位に信じられない者にそのような話をしても、またもや、律法主義に陥ったようになるのではないでしょうか。

人間の怖いところはそこです。

みんな厳しいお話に落ち着きたいだけでしょう。だいたいが律法主義に落ち着きたいだけです。

と、厳しい話をする。



ローマン・カトリックにおける罪の「定義」は・・・・・「この神の愛を、充分過ぎる位に感じられる者だけが、理解できる事柄」なのだと思います。

しかし聖霊に犯した罪は許されないといわれています、しかしこれは理屈としてぺらぺらとしゃべっていい事ではないですよね。・・・・・本当の事は決して語れないと思います。鬱の方は広い世の中の政治経済のことまで考えずに、むしろ純真さからこれも自分の事だと思ってしまうので決して言えません。

厳しい事を言うようですが、厳しい事を聞いたからといって、理解できるような事柄ではないと思います。心で感じて涙を流して初めて許しに近づくのだと思います。



司祭はこの点に関してご自分の司牧する教会の信者や、「現代人」という事を誤解していないと思います。

また、司祭がイエスの厳しい言葉を重く受け留めようとしません、という批判にはいささか疑問を感じます。司祭はご自分の事に関してはそのように充分にしていると思います。

わたしがこの高名な愛情深い司祭に危惧する点に関しては、あなた様のブログでは伏せておきます。エウティコさんとはどうやら違う考えのようです。エウティコさんの心を惑わしているのは律法主義です。

大変失礼たしました、お詫び申し上げます。言葉において思いの足りないことがあり、お心を損なうような表現がございましたら、どうぞ平に平にお許しくださいませ。

あなた様にとってもわたしにとっても四旬節が祈りの時でありますように。では。
返信する
彷徨える罪僕 (エウティコ)
2014-03-25 19:39:47
森の都さん、こんばんは。

あなたは私の受洗に至らない懊悩を、「エウティコはいつまでも結婚(受洗)しない、いつまでも皆の前で愛を誓うことを拒んでいる。いつまでも結婚しないことは恥ずかしい事だ」と表現されました。さらに、「相手(神でしょうか?)を辱めているということはあり得る」とも。その通りだと思います。返す言葉もありませんが、「後にいる者が先になる」(マタイ20・16)ということもなくはないでしょう。

ただ、神を求めながら、教会の「現実」の姿に困惑する者もいます。「ここに神はおられるのか。とても信じられない」と。日本のカトリック教会の「現実」を申し上げることは控えますが、既に私の心は日本のカトリック教会から離れ、もう半年間もミサに与っておりません。現在、東方正教会に惹かれているのは、「荘厳な儀式や聖歌に憧れて、隣の芝生が青く見えているだけ」ではないことを、ハッキリ申し上げておきます。

「律法主義」とはどのようなものでしょうか。イエスの「厳しい言葉」は「律法主義」でしょうか。それらも「真福八端」と同じく、「神のことば」ではないでしょうか。私は「厳しい言葉」を求めて、「律法主義に落ち着きたい」と望んでいるのではありません。ただ、イエスの全てを知りたいだけなのです。従って、私が「律法主義に惑わされている」というご指摘には、強く抗議いたします。

今回、晴佐久神父は「あなたはもうすでに、救われている」と現在完了形で断言しました。それが日本のカトリック教会だけではなく、「キリスト教の宣言」だというのです。この「福音“万人救済”宣言」が日本のカトリック教会だけで留まっていたら、罪僕のような私が日本のカトリック教会の「カリスマ神父さま」を批判することはなかったでしょう。
返信する
Unknown (Unknown)
2014-03-25 19:58:34
わたくしの拙い表現を清らかな心で愛の内にお読みくださってうれしいです。


エウティコさんは、きっとカトリックに向いておられると思います☆


エウティコをカトリック教会が得る事が出来るように祈ってます☆


洗礼を受けると色々な秘跡を授かる事が出来ます☆


それに預かる事よって信仰が育てられると思います☆


信仰が増すと知らなかったことを知るようになります☆


愛するとやっと本当のカトリックの方の悔い改めが出来るようになります☆


そうするとやっと本当の方で信じて福音を信じる事が出来るようになると思います☆


でもカトリックは、神秘的な事、超自然的な事に心を開いて初めて信者として自己発見に至る、というのがあるので、そこの処が、ちょっと心配といえば心配です。それを避けては身も心もカトリックになることはないと思います。

「イエスの全てを知りたい」という熱意を全て・・・・・全て、「イエスの全てを愛したい」という熱意に置き換えてみるというのはいかがでしょう☆

今日はその事を考え続けたらエウティコのおかげでごミサにあずかりたいという気持ちにまでなりました。今日は3月25日なので特に。

イエス様を知ることは、イエス様を愛さないとできないと思います。

日本のカトリックは・・・・・とおっしゃられますが、だからこそ、あなたのような思いの青年が是非とも必要なのだとは思いますよ。違いますか?エウティコさんようにものが見えている人には是非カトリックの方で信者になっていただきたいと思っています。

カトリックは勉強できる事が沢山あって、本当にとても楽しいですよ☆☆☆、信じて愛している者にとっては学ぶ事が、あり過ぎるのです。

それと。

カトリック教会は・・・・・今あるカトリック教会の、とあることに気が付いて、愕然とするまで、迷い続けるという可能性はあります。まさに呆けたように愕然とすることです。

律法主義に惑わされているんじゃないぞというはっきりとしたお気持ちがあるならば、本当に良かった。きっと違うってわたしも思いました。大変失礼いたしました、あなたのポジティブな気持ちに助けられました。大変なご無礼をお許しください。

わたしが洗礼に関して言った事は、真面目です。

どうかときどき思い出してください。


‐‐‐わたし達はエウティコを得るために何ができるのだろう。




わたくしメは、もうこれでコメントいたしませんが、ときどき思い出して祈っています。

返信する
Fiat(フィアット) (エウティコ)
2014-03-27 13:12:30
森の都さん、こんにちは。

3月25日は神のお告げ(受胎告知)の祭日ミサがあったのですね。私も聖母マリアの「Fiat (仰せの如くなれかし)」に倣って、神の御旨に従いたいと思います。

2012年の復活節第2主日(4/15)までは、私も日本のカトリック教会で入門講座を受講しようと真剣に考えていたのです。しかし、その後は以前から抱いていた日本のカトリック教会の「現実」を痛感することになりました。晴佐久神父の「福音“万人救済”宣言」を軽率に受け入れてしまう「現象」もその一つです。それに加えて、私は敬虔なカトリック信徒だった祖父の思い出を通して、日本のカトリック教会に過度な「理想」を求め過ぎていたのです。古き良き時代の信仰を。

以前、今枝由郎氏の『ブータン仏教から見た日本仏教』(NHK出版・2005年)という本を興味深く読みました。著者は日本仏教の「異質性」について、次のように説明しています。「現在の日本の仏教は、まさに日本化したもので、多くの面で本来の仏教とは本質的に違ったものになっている」・・・。この文章の「仏教」という言葉を「カトリック」に置き換えると、私の日本のカトリック教会に対する将来の(小さくない)危惧となります。しかし、それについて多くを語ることは控えます。

その意味では、私も『バチカンから見た日本のカトリック教会』という視点で、「カトリックの信仰とは何か」を再考する必要があるのかもしれませんね。「気が向いたら」ですが。
返信する
お祈り、ありがとうございます。 (エウティコ)
2014-03-27 13:33:35
メロさん、こんにちは。

今回、晴佐久神父が「福音“万人救済”宣言」を日本のカトリック教会のみならず、それが教派を超えて「キリスト教の宣言だ」と(なおかつ、「あなたはもうすでに、救われている」と現在完了形で)言い切ってしまったのは、あまりにも「勇み足」というものでしょうね。

この点、イエズス会のペトロ・ネメシェギ神父は次のように指摘されています。「すべての人間が確かに救われるということを、“主張”することはできませんが、それを、“希望”することは許されるでしょう」(雑誌『聖母の騎士』2010年9月号より)。また、正教会のカリストス・ウェア府主教も「全てが救われるのか」という質問に「救いという神秘につき、多くを語り過ぎないように」と戒めつつ、「全ての者のために祈らなければならない」という聖シルワンの言葉を紹介されました(『私たちはどのように救われるのか』より)。
つまり、ネメシェギ神父もウェア府主教も「全ての人の救い」のために「祈り」をすすめているのです。ところが、晴佐久神父の「福音“万人救済”宣言」は「悔い改め」のみならず、「祈り」そのものが欠落している。そんな霊的に貧しい状態なのに、「私はもうすでに、救われている」と錯覚してしまう。「福音“万人救済”宣言」はこのような危険も孕んでいると思います。

たしかに、最近の晴佐久神父は「福音“万人救済”宣言」を糊塗するために、教皇フランシスコの言葉さえも「都合良く」セレクトしていますね。教皇様がそんな「生ぬるい信仰」に共感されていないことは、今年の四旬節(レント)に寄せられた「悔い改めを伴わない自己放棄は、真の自己放棄ではありません」というメッセージなどからも明らかです。晴佐久神父は「福音“万人救済”宣言」に結びつくようなキーワードを聖書や教皇様の発言から血眼になって探し求めているとしか思えません。
返信する
はじめまして (ビション)
2014-03-27 17:11:11
エウティコさん、はじめまして。
いつもブログを拝見させていただいておりましたが、コメントを書き込むのは初めてです。各地の教会を巡っていらっしゃる記録をいつも楽しく拝読しております。

さて、晴佐久神父の件ですが、いつも私がモヤモヤしていた部分を明確に文章化して下さった、との感想を抱きました。正直、嬉しかったですw

私はカトリックなのですが、日本のカトリック内では彼を持ち上げる傾向が強く、なかなか信徒同士でもこの種の話題はし難く…唯一、カトリック新聞内で批判の投書があった位でしょうか。でもそれも、彼自信の説教の中で否定されていましたね(大人気ないなぁ)。
まあ、でもこれは理解できます。あれだけの実績(受洗者数)がある以上、お上も何も言えないでしょうから。

確かに、心を病んでいる人に対して、彼のような福音を語る人は必要でしょう。それはよくわかります。しかし、それ一辺倒だとね、と思うのです。

聖書、カテキズム、教皇の言葉等々。実際のカトリックは、非常に厳しいものです。とても軽々しく「みんな救われてる」なんて言えるものじゃない。
そこで気になるのは、彼の下で受洗した方は、彼の司牧を離れた場合、どのように信仰を保つのだろう?という点です。恐らく非常に困難なのではないかな、と想像します。

ともあれ、この件に関して、はっきりと声を上げて下さったエウティコさんには感謝しております。カトリック内では、腫れ物を扱うような状態でしたので。非常に客観的で、正しいご指摘です。

また、「日本のカトリック、そして日本化されたキリスト教」に対する危惧とご意見にも全面的に同意です。私はすでに信者になって長いので、カトリックを離れるつもりはありませんが、求道者であるエウティコさんが離れてしまわれたのは大いに理解できます。

求道者である事にコメントされる方が多いようですが、お気になさらない方が良いと思います。私自身、洗礼に至るまで長くかかりました。そしてその時間は必要なものだったと感じております。信仰は、あくまで神と自分自身の関係性の中での問題です。他者には決して理解し得ないものです。

毎週教会に通い続けられるエウティコさんの真摯な姿勢には、いつも大いに励まされ、学ばされます。これからもブログの更新を楽しみにしています。
返信する
やがて、過ぎて行きます。 (うたびと3164)
2014-03-27 18:59:33
エウティコさん、お久しぶりです。

晴佐久ブームも…やがて過ぎて行きます。

私は幼児洗礼ではなく、二十歳過ぎに受洗して(いろいろ躓きもありましたが)…かれこれ三十年以上になります。そう書いて、自分でもびっくりしてしまいます。(笑)

だからという訳ではありませんが…晴佐久神父一人のために、カトリックをやめようとは思いません。理屈ではなく、カトリックは、これでなかなか懐深いです。

私自身も、キリスト教の事を知りたいと思ってから、カトリック教会に辿り着くまで、数年かかりました。
逆にカトリックが身近にありながら、辿り着かない、親しい人も居りました。その辺り、とても難しい問題だと思います。

高い、高い、山を見なさい ―ホイヴェルス神父

私も…お節介の気持ちからではなく、お祈りさせて頂きます。

返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。