しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <一つに集める>

2023-06-26 | ミカ書
「ヤコブよ。わたしは、あなたを必ずみな集め、イスラエルの残りの者を必ず呼び集める。わたしは彼らを、囲いの中の羊のように、牧場の中の群れのように、一つに集める。こうして、人々のざわめきが起こる。」(ミカ2:12新改訳)

ミカはイスラエルの罪深さをきびしく責めるが、将来の回復も預言する。彼が預言していた頃、北イスラエルはアッシリアのため捕囚となり、ユダ、ベニヤミン族以外の人々は世界各地に離散させられてしまった。南ユダ王国はそのあと三〇年ほど持ちこたえたが、これもバビロンのため滅亡してしまった。▼だがミカは言う。「わたしは彼らを、囲いの中の羊のように、牧場の中の群れのように、一つに集める」と。この預言を成就させ給うお方こそ、イエス・キリストである。主は今、囲いの外にある別の羊を全世界から集めておられる。それは霊的イスラエル、つまり、おもに異邦人キリスト者たちから成る教会のことだ。そのあと、異邦人のときが終わると、主のみ手はイスラエルに伸ばされ、彼らもまた集められ、両者はキリストにあって一つにされるであろう。

朝の露 <すべての民族よ、聞け>

2023-06-22 | ミカ書
「その刻んだ像はすべて打ち砕かれ、儲けはみな火で焼かれる。わたしはその偶像をすべて荒れ廃(すた)らせる。それらは遊女の儲(もう)けで集められたのだから、遊女の儲けに戻る。」(ミカ1:11新改訳)

ミカはイザヤとほぼ同時代の預言者だが、当時のイスラエル、ユダ両王国がどれほど偶像礼拝に狂っていたかを指摘(してき)する。▼国中に偶像が祭られ、人々はそこに詣(もう)でて遊女たちと不道徳にふけっていた。イスラエルの都サマリア、ユダの都エルサレムにも異教の宮が立ち、子供たちが火の中に投じられ、高い山や青木の下には偶像また偶像、道徳の腐敗と野卑(やひ)な酒宴(しゅえん)、残虐(ざんぎゃく)な行い、賄賂(わいろ)、不正、弱者への暴力と差別など、枚挙(まいきょ)にいとまがないほど神に対する罪が行われていたのである。▼その中でミカは来るべき神の怒りを敢然(かんぜん)と宣言する。彼は天を仰ぎ、世界を視野において獅子吼(ししく)する、「すべての民族よ、聞け。地とそこに満ちているものたちよ、耳を傾けよ」(2)と。彼の預言は当時だけでなく、現代に至るまでの世界人類に向かって呼びかけられたものである。神の審判はかならず到来する、と。▼ミカから800年ほどあとに、主イエスも警告された。「ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降って来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。人の子が現れる日にも、同じことが起こります。」(ルカ17:29,30同)


朝の露 ミカ書7章 <神を待ち望む>

2018-12-13 | ミカ書

赤い実「しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の言うことを聞いてくださる。」(ミカ7:7新改訳)

本章の最初で「ああ、悲しいことだ」(1)と絶望のうちに慨歎(がいたん)したミカ。イスラエルの堕落はそれほど深く広く、癒しがたいものに見えた。敬虔な者はこの地から消え失せ、正しい者はひとりもいない(2)とまで言うのだから、よほどひどかったことがわかる。▼だが、ミカは希望を失わない。人を見、国の現状を眺めればそうであろう。しかし私は主を仰ぎ見、救いの神を待ち望んでいるのだ。神は奴隷の家であるエジプトから私たちを買い戻し、荒野でマナを降らせて養い、数々の奇蹟と祝福により、ここまで導いて下さったお方ではないか。かくして預言者は、「もう一度私たちをあわれんでください」と懇願しつつ本書を結ぶ。▼この祈りにもかかわらず、両王国は滅ぼされ、地図から消えて行った。が、彼らの声は消えず、あらゆる時代を通して信仰者たちを照らし、キリスト再臨の日にまで及ぶ。◆預言者ミカ、ふしぎな人である。彼は7世紀も前に、メシアがベツレヘムから出ることを語った(5:2同)。それは永遠の昔から定まっていることだ、と。そしてイスラエルの人々はその預言を知っていた。なぜなら、東方の博士たちが旅をして来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」(マタイ2:2同)とエルサレムの人々にたずねたとき、彼らは「ユダヤのベツレヘムです」(4)と、すぐ答えることができたのである。同じことがヨハネ7:42にも記されている。◆ミカはイザヤとともに、メシアの王国が必ず到来し、地上に恒久平和がおとずれることも預言している(4章)。国連のビル前にこのことばが刻まれているそうだが、彼を通して語られた主の約束が、全世界に希望を与えていることをだれも否定できないのである。イエス・キリストは二千年前、ミカの預言のとおりベツレヘムに来られた。だから同じくミカの預言のとおり再臨し、地上に平和の王国を開始されるであろう。たとえ今、人類が武器づくりに狂奔(きょうほん)し、戦いに明け暮れていても。

 


朝の露 ミカ書6章 <何をもって主の前に>

2018-12-12 | ミカ書

森の宮「何をもって、私は主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のささげ物、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。」(ミカ6:6新改訳)

神が求める本当の信仰とは何か、ミカは独白のかたちで記す。6~8節は、旧約聖書中でも特に愛されている有名な箇所。▼完全な犠牲動物、いやたとえ自分の実子を犠牲としてささげたとしても(これは当時、異邦の宗教で行われていた)、まことの神に対する愛と真実が、その人の生きざまとして実を結んでいなければ、信仰は空しく、むしろ偽善である。イスラエルとユダよ、お前たちが行っている宗教儀式、礼拝行為は完璧かもしれない。しかしそれでは、巷(ちまた)に満ちている暴虐、不正、差別の数々はなんだ。悪を見過ごしにし、敬虔そうな礼拝をささげれば、わたしが喜ぶと思っているのか。そのような信仰こそ、わたしがもっとも忌み嫌い、憎むべきことだと知らないのか。ホセアもおなじことを言う。「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」(ホセア6:6同)▼ミカの指摘はあらゆる時代の信仰者、とくに教会に向かう警告の声である。私たちは主日になると、敬虔な装いで礼拝に行き、祈りをささげ、みことばに聞き入るかもしれない。だがいったん家に帰れば、不敬虔な言葉を平気で口にし、悪口を言い合い、苦い思いを抱き、何とも思わない。ましてそれが、共におられる御聖霊のお心を憂えしめていることに気が付かない。「私は、一応今のところは忠実な教会生活を送っているからだいじょうぶ」と考えてはいないだろうか。もちろん、おどおどしながら信仰生活をせよ、というのではない。が、裏表(うらおもて)のない信仰生活こそが主に喜ばれることを、常に忘れないようにしたい。ほんとうにキリストの日がそこまで迫っているのだから。


朝の露 ミカ書5章 <偶像の消滅>

2018-12-11 | ミカ書

ばらの生け花「わたしは、あなたのアシェラ像をあなたのただ中から根こぎにし、あなたの町々を滅ぼし尽くす。わたしは怒りと憤りをもって、わたしに聞き従わなかった国々に復讐する。」(ミカ5:14,15新改訳)

出エジプトから荒野放浪時代、続くカナン占領後のイスラエル史を読むと、偶像を根絶するのがどんなにむずかしいか、一目瞭然である。現代も然り、日本やアジアだけでもどれだけ偶像が祀(まつ)られていることか。いわゆるキリスト教国でも、実体は偶像と変わらないものがたくさん存在している。▼キリストの地上再臨まで、世界から偶像がなくなることはない。人間は再臨されるキリストを目の当たりにするとき、初めて偶像の空しさ、愚かさを知るのである。「その日、人は自分を造られた方に目を向け、その目はイスラエルの聖なる方を見、自分の手で造った祭壇に目を向けず、自分の指で造ったもの、アシェラ像や香の台を見もしない。」(イザヤ17:7,8同)▼今の時、血潮によって救いにあずかり、霊の目が開かれて有形無形の偶像から完全に解放された主の花嫁ほど幸いな存在はない。使徒パウロは「多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです」(ピリピ3:19,20同)と記している。偶像中の偶像は人の心を支配している欲望であり、サタンの化身、古き人と呼ばれるものである。◆イエス・キリストはご自身と共に、古き人という「人間がどうすることもできなかった最大の偶像」を滅ぼしてくださったのである。だからイエスのもとに来るものは滅びから解放され、本当の自由に入れられる。「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました」(ガラテヤ5:1同)と使徒が高らかに叫ぶのは当然ではないだろうか。