「イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。『まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。』」(マタイ8:10新改訳)
主はなぜローマ人百人隊長が抱いた信仰にこうも驚かれたのか。ひとつはその謙遜であった。「私はあなた様を自宅にお迎えするような者ではありません。異邦人の一兵士にすぎないのです」との言葉は、主が神の子であるという事実をこの上なく尊んでいた証拠であった。その反対に、選民ユダヤ人は主をナザレの大工と軽蔑(けいべつ)し、けがれた遊女(ゆうじょ)や取税人たちと交わっていると非難(ひなん)したのであった。▼もうひとつは主の御口(みくち)から出るおことばの絶対的権威(ぜったいてきけんい)を知り、信じていたこと。主がいったん仰(おお)せられたことばは「天地が失せてもなくならない神のことばであり、その権威の前にはどんな存在でもひれ伏し、従う」との信仰である。病気であれ死であれ、おことばの前には従わざるを得ないとの確信を、律法も知らないローマ人がどうして知り、信じていたのか。主イエスの驚きはそこにあった。▼ローマ軍の規律はきびしく、上官の命令に違反したときは死が待っていた。その体験から信仰についての理解が生まれたのだろう。一例としてピリピのできごとが思い出される。「真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。すると突然、大きな地震が起こり、牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、すべての囚人の鎖が外れてしまった。目を覚ました看守は、牢の扉が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で『自害してはいけない。私たちはみなここにいる』と叫んだ。看守は明かりを求めてから、牢の中に駆け込み、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏した。そして二人を外に連れ出して『先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか』と言った。」(使徒16:25~30同)