「エリヤは皆の前に進み出て言った。『おまえたちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか。もし主が神であれば、主に従い、もしバアルが神であれば、バアルに従え。』しかし、民は一言も彼に答えなかった。」(Ⅰ列王記18:21新改訳)
ここには、北イスラエル人たちの不信仰と迷いがあらわれている。イスラエルが昔から信じて来たのはモーセによって示された主なる神であった。しかし今や、アハブ王と妻イゼベルはバアル神や偶像を信じ、それ以外の信仰はゆるさず、抵抗する者は殺すという体制をしいていた。その中でエリヤの言うような信仰をつらぬくのは容易(ようい)ではない。だからエリヤに迫られても答えることができなかったのである。▼今のわが国もこれと同じではないだろうか。国を挙(あ)げて偶像文化に染(そ)まり、そこから抜(ぬ)け出すことができない。心では聖書を信じたいと思っても、体制がそれをゆるさない。そこで結局、どっちつかずによろめいて生きていくしかないのである。だからキリスト者はエリヤのように真剣に祈らねばならない。祖国(そこく)がほろびないために。