【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「グエムル 漢江の怪物」:恵比寿駅前バス停付近の会話

2006-09-06 | ★田87系統(渋谷駅~田町駅)

なに、この川?
渋谷川よ。
だいじょうぶだろうな。
なにが?
この川、「グエムル」みたいな怪物いないだろうな。
たしかに、濁った川の色といい、緑とコンクリートの殺風景な景色といい、「グエムル」がいても不思議じゃない雰囲気ね。
だろ?
そもそも、この渋谷川はどこから流れてきてどこへ流れていくのかよくわからないのよね。
ますます不気味だ。
でも、韓国映画の「グエムル」は怪獣映画の割りに不気味というより滑稽だったわよ。
笑えない喜劇ってやつだな。いや、いい意味で。日本映画でいえば、森崎東の映画みたいだといえばわかってくれるだろうか。
そうそう、つぼをはずした笑いがあちこちに散らばっていて妙な味わいだったわね。
それだけじゃなくて、怪獣映画としても画期的だったな。
どこが?
1954年の「ゴジラ」以来、50年間、日本の怪獣映画っていうのは、必ず警察とか自衛隊とか地球防衛軍とかなんとか博士とか怪獣同士とか、一般庶民と関係ない人ばかりが怪獣と戦うという構図から一歩も出ていないような気がするんだ。ところがこの韓国映画は、一般庶民が怪獣と真っ向から戦うという日本映画が成しえなかった構図を成功させてしまったんだ。
いいじゃないの、一般庶民は国とか軍隊とか力のある者に守ってもらえば。
おいおい、お前は映画から何を学んでるんだよ。国は庶民を守ってくれないって、「蟻の兵隊」を見て痛感したばかりじゃないか。桶川ストーカー事件だって、警察が庶民を守ってくれたか?
じゃあ、どうすればいいのよ。
自分の身は自分で守るしかないんだよ、この映画みたいに。
でも結局守りきれなかったじゃない。
いいや、あのラストこそ希望のラストだ。自分の家族のために立ち上がった者たちに連帯が生まれ、家族の連帯から弱き者たちの連帯、ひいては人類の連帯へと世界が広がっていくだろうことを予感させる希望に満ちたラストなんだよ。
なんかのプロパガンダ映画みたいね。
だって、武器が火炎びんだぜ。
日本のパトレーバーの挿話に似ているっていう批判もあるけど。
日本映画が手をこまねいているから韓国にとられちゃうんだよ。はやく目をつけないからいけないんだよ。
だからって、勝手にパクッていいってことにはならないわ。
もちろん。盗作かどうかはみんなで検証してほしいね。
マスコミとかね。
ちがーう。そういう権威は当てにならないっていうのが、「グエムル」自身のテーマなんだから。
なるほど。庶民で検討していくしかないのね。
でも、あの疾走感は監督自身のものだろう。
ああ、すばしこい怪獣だったわね。
そうじゃなくて、あの怪獣から逃げたり、怪獣を追いかけまわしたりする人々の疾走感だよ。あのカメラワークの素晴らしさ。古今東西、人が走る姿を魅力的にとらえるかどうかが映画として見れるかどうかの分かれ道だからね。
たとえば?
日本映画でいえば「愛の新世界」。夜明けの町を走る疾走感が理屈ぬきに感動的だった。それにひきかえ「黄泉がえり」のクサナギ君の走り。最低だったね。いや、本人の責任じゃなく、監督の責任だよ。
韓国語堪能のクサナギ君ね。
ああ、ぜひクサナギ君主演で日本版グエムルをつくってほしいね。
まねでもいいの?
それはだめ。



ふたりが乗ったのは、都バス<田87系統>
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