Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

岡田暁生「音楽の危機」

2020年11月10日 | 読書
 本年2月以降のコロナ禍の推移で特徴的なことは、カミュの小説「ペスト」が象徴するように、文学、美術、歴史、その他のさまざまな分野の知見が動員され、いま起きていることの意味が論じられたことだ。わたしはそれらの知見にふれながら、では音楽はどうなのかと思っていた。なぜか音楽の分野からの発信はなかった。そんな折、待望の書というべきか、音楽学者の岡田暁生の新著「音楽の危機」が出た。

 本書は(後述するが、終章をのぞいて)いわゆる緊急事態宣言下にあった4月から5月にかけて執筆された(終章は6月後半に執筆された)。コロナ禍で先行きどうなるかまったく見通しのつかない状態のなかで、心に浮かんだことをそのまま書き留めたものだ。著者はいう、「だが、状況がある程度落ち着いてきたのを見極めてから、それを「客観的に」論じるということを、わたしはやりたくなかった。「後出しジャンケン」はしないでおこうと決めたのである。」(「まえがき」より)と。

 本書は大きく分けて、第1章から第3章までの第1部と、第4章から第6章までの第2部の二部で構成されている。第1部と第2部の間に《間奏》と題された章があり、最後に終章がある(終章は第2部の一部かもしれない)。

 第1部で主に語られることは、生音の消えた世界のこと。生音とはなんだったのか、という点から始めて、生音が消えた意味を考える。そしてトフラーの「第三の波」を参照しつつ、現在地点を考察する。農業革命、産業革命に次いで、いまわたしたちは(トフラーが予言した)第三の波のなかにいる。それをいまの言葉でいえば、高度情報化社会かもしれず、今後のその進展は、音楽にとってなにを意味するか、と。

 間奏では、コロナ禍のもとでの音楽を考える場合に、第一次世界大戦時の音楽が参考になると論じる。具体的な事例を引きながら、音楽がなくなると悲観する必要はないが、一方、音楽の有用性の主張のため、音楽の体制への迎合が懸念される、と。

 第2部で主に語られることは、各時代の時間モデルとしての音楽だ。音楽の終わり方はその時代の時間モデルを体現する、と。バッハは「帰依型」、ハイドンやモーツァルトは「定型型」、ベートーヴェンは「勝利宣言型」、シューベルトやマーラーは「諦念型」、ラヴェルは「サドンデス型」、ミニマル・ミュージックは「ループ型」。そして直近の時間モデル(むしろ社会モデルの観を呈する)として20世紀後半の5つの作品にふれる。

 全体を通して言及されるのはベートーヴェンの「第九」だ。「第九」が有無をいわせぬ傑作であることは十分に認めつつ、「第九」が体現する社会を解明し、いまの社会を体現する音楽を求める。それはとても示唆的だ。
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