Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

舟越桂の逝去

2024年04月11日 | 美術
 彫刻家の舟越桂が3月29日に亡くなった。72歳。肺がんだった。わたしは迂闊にも、その訃報で初めて、舟越桂がわたしと同い年だったことを知った。そうだったのか……と。なので、なおさら逝去が身にしみた。

 わたしが初めて舟越桂の作品を見たのは、2005年、ハンブルクでのことだった。ハンブルクにはオペラを観に行った。日中は暇なので、郊外のバルラッハ・ハウスを訪れた。バルラッハはドイツの彫刻家だ。ケーテ・コルヴィッツと同様に、ユダヤ人ではないが、ナチスに迫害された。わたしはバルラッハの作品が好きなので、期待して出かけた。

 ところが着いてみて驚いた。舟越桂という日本人の彫刻家の展覧会が開かれていた。バルラッハの作品と舟越桂の作品が並んで展示されていた。そのときは、バルラッハの作品を見に来たのに日本人の作品を見るのかと、正直がっかりした。加えてその日本人の作品がバルラッハの作品とは異質だった。両性具有的で、官能的だ。わたしは何とも居心地の悪い思いでバルラッハ・ハウスを後にした。

 だが、なぜか舟越桂という彫刻家が気になった。3年後の2008年に東京都庭園美術館で舟越桂の展覧会「夏の邸宅」(↑チラシ)が開かれた。わたしは勢い込んで出かけた。そして圧倒された。両性具有的な作品は、もちろん官能的だが、それだけではなく、自身の異質性に戸惑い、恥じらいつつ、なおもみずからをさらけ出す作品に見えた。それは人間存在の深いところに触れた。

 その後も何かの折に舟越桂の作品に接することがあった。最後に見たのは2019年、東京オペラシティ・アートギャラリーで収蔵作品展を見たときだ。舟越桂の「午後にはガンター・グローヴにいる」のための大きなドローイングが展示されていた。両性具有的な作品が生まれる前の作品だ。人物造形のたしかさはもちろんだが、荒っぽく走る描線には制御しきれない感性のほとばしりが感じられた。彫刻作品のためのドローイングだ。完成作品にはない生きた情動が感じられた。

 周知のように、舟越桂は彫刻家の舟越保武の息子だ。舟越保武は歴史に残る大彫刻家だ。作品は剛直で深い精神性をたたえている。わたしは舟越保武の作品を見るといつも畏敬の念を覚える。そのような父をもつ息子は(しかも同じ彫刻の道を歩むとすれば)大変だろう。舟越父子の親子関係は知らないが、一般的には、父親が偉ければ偉いほど、息子は屈折した成長の軌跡をたどる例が多い。

 実際はどうだったのか。ともかく舟越桂は父親とはちがう場所に居場所(=表現の領域)を見つけ、そこを深掘りしたように見える。
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