Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

難波田龍起、舟越桂のことなど

2019年06月05日 | 美術
 東京オペラシティ・アートギャラリーで収蔵品展「コレクター頌 寺田小太郎氏を偲んで」が開催されている。寺田小太郎(1927‐2018)は「東京オペラシティ街区の地権者の一人」で、「1991年、新国立劇場建設をはじめとする官民一体の再開発事業に参加し、街区内の美術館創設に協力するため、収蔵すべき作品の蒐集に努めた」(同展のパンフレット)。

 同氏のコレクションの中核をなすものが難波田龍起(なんばた たつおき)(1905‐1997)の作品。わたしは同ギャラリーで過去に何度か難波田龍起の作品を見るにつけ、不思議に惹かれるものを感じていたので、その作品をまとめて見られる本展に行ってみた。

 難波田龍起の作品は11点展示されていた。どれも抽象画だが、もっとも惹かれた作品は「生の記録 3」(1994年)。3枚のキャンバスをつなげた162.1×390.9㎝の大作だ。青色一色だが、よく目を凝らすと、微かな濃淡があり、文様が朧げに浮き出る。その文様は見る人によって異なったものに見えるかもしれないが、わたしは夜の森のように見えた。月明りが射さない真っ暗な森。だが、目が慣れるにつれて、木々の様子がわかってくる。

 真ん中のキャンバスには、両側に木々が生い茂り、その中央に細い道が奥に向かってのびているが、その先には木々が立ちふさがっていて、行き止まりだ。向かって左のキャンバスには、何本もの倒木が乱雑に道をふさぎ、奥には行けそうもない。右のキャンバスにも倒木が横たわっているが、多少整然としている。

 題名は「生の記録 3」なので、本作は人生の苦しみの暗喩かもしれないが、死後に(死の国に向かって)歩む道のようにも見える。また逆に、生れ出るときの胎内の記憶のようにも見える。

 ある一色で塗りつぶしてはいるが、そこに微かな濃淡があり、それが見るものを画中に引き込むという点では、抽象表現主義の画家マーク・ロスコ(1903‐1970)を思わせるが、ロスコの場合の哲学的な思索とは異なり、難波田龍起の場合は、みずみずしい抒情性が感じられる。

 本展では難波田龍起の作品以外にも惹かれる作品がいくつかあったが、今でも記憶に鮮明なのは舟越桂(ふなこし かつら)(1951‐)の「「午後にはガンター・グローヴにいる」のためのドローイング」(1988年)だ。「午後には……」は同氏の木彫作品だが(北海道立旭川美術館蔵)、本作はそのためのドローイング。繊細に震える感性がこの作家らしい。
(2019.5.28.東京オペラシティ・アートギャラリー)

(※)本展のHP

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