Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ラザレフ/日本フィル

2018年11月10日 | 音楽
 ラザレフが日本フィルと続けているロシア音楽の演奏は、どれも名演揃いだが、なかでもショスタコーヴィチの交響曲は、作品の真の姿を伝えるという意味で、画期的なものだと思う。今回は問題作の一つ、交響曲第12番「1917年」が演奏された。演奏順とは異なるが、まずその感想から。

 音の分厚さ、ダイナミックレンジの広さ、スケールの大きさ、豪快な表現と緻密なアンサンブルの共存、そしてなによりも真剣さという点で、これもまた名演だった。名演という言葉が月並みに感じられるような際立った演奏だった。

 わたしは今までこの曲が苦手だった。ショスタコーヴィチの真意がどこにあるか、つかみかねていたのだが、今回はそんなことを考えないで、素直に耳を傾けることができた。それが不思議だった。初めての経験だった。

 なぜだろうと思いながら聴いているうちに、ふと思い当たったのは、この曲の標題(第1楽章「革命のペトログラード」、第2楽章「ラズリーフ」、第3楽章「アヴローラ」、第4楽章「人類の夜明け」)をほとんど意識しないで聴いていられるからだった。ラザレフの演奏のどこがどうだから、ということはわからないが、ともかくこの曲の(どこか映画じみた)標題が頭に浮かばなかった。

 思えば、それらの標題は、ショスタコーヴィチが当局向けに付けた標題かもしれない。この曲は過度の深読みをする必要はないし、イソップ言語を探す必要もないとは思うが、それにしても今までわたしは、それらの標題に引っ張られすぎていたかもしれない。そして、もしかすると、それらの標題に引っ張られた演奏もあったかもしれない。

 ラザレフの演奏は、これまでと同様に、スコアを真摯に読み、その音の動きを並外れたスケールで再現するもので、それは音楽そのもの、一切のストーリー性を排した純粋に音楽的なものだった。そうすることによって初めてショスタコーヴィチが書いた音に(なんの夾雑物もはさまずに)向き合える、と信じているような演奏だった。

 ラザレフも日本フィルも、ぎりぎりの限界まで能力を出し切った演奏。プロの演奏家のモラルの高さが表れた演奏だった。

 プログラム前半にはグラズノフの交響曲第8番が演奏された。それもスケールの大きな名演だった。第2楽章(緩徐楽章)が、抒情的というより、オペラの一場面のような彫りの深い音楽なのが印象に残った。
(2018.11.9.サントリーホール)

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