Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

オペラ「道化師」をめぐって

2023年07月13日 | 音楽
 レオンカヴァッロのオペラ「道化師」を観たことは何度かあるが、その中でもフィンランドのサヴォンリンナ音楽祭で観た記憶は鮮明だ。中世の古城の中庭で演じられる野外オペラだ。古城の壁が反響板になり、意外に音は良かった。例によってマスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」とダブルビルで上演された。「カヴァレリア‥」が抒情的な悲劇に演出され、「道化師」が喜劇仕立てで演出されたのも定石通りだ。

 なぜ記憶に残っているかというと、オペラは日が暮れてから上演されるのだが、日中に街を歩いていると、賑やかで騒々しい一団が歩いてきたからだ。サヴォンリンナ音楽祭には世界中から観客が集まるが、街自体は静かな小都市だ。そのひっそりした日常を破るかのような一団が場違いだったので忘れられないのだ。

 だが、夜になって「道化師」が始まり、わたしはアッと驚いた。幕開けの群衆の場面が日中に見た騒々しい一団とそっくりだった。そうか、あの一団はオペラに出演する歌手たちだったのかと納得した。ならば、あの陽気さも分からないわけではないと。

 「道化師」は第1幕で旅芸人の一座の愛憎を描き、第2幕では一座が演じる芝居が第1幕の人間模様と重なって進む。それと同じように、日中の騒々しい一団が第1幕の幕開けの群衆と重なり、その二重三重の重なりが「道化師」にふさわしく思えた。

 そんな想い出があるのだが、でも「道化師」はかならずしも好きなオペラではなかった。ドラマ構成が技巧的に過ぎると感じられるからだ。むしろ「カヴァレリア‥」のほうが好きだった。素直に観ていられるし、感情移入もしやすいからだ。

 だが7月8日の広上淳一指揮日本フィルの演奏会形式上演を聴いて、「道化師」を見直した。ドラマトゥルギーが技巧的なのは、それはそれで仕方ないが、それはさておき、音楽の密度の濃さは比類ないことが分かった。それが分かったのは演奏会形式だったからだろう。舞台上の動きに気を取られずに、音楽に集中できた。

 たとえば第1幕のシルヴィオとネッダの二重唱で、途中に一瞬の間(ま)が入り、その前と後とで音楽の色が変わることにハッとした。極端に思われるかもしれないが、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の愛の二重唱のミニチュア版のように思った。いままで何度も観たオペラなのに、その間(ま)を意識したことはなかった。

 もちろん演奏が良かったからだろう。広上淳一の指揮はまれにみるほど気合が入っていた。本気の指揮だと思った。日本フィルの演奏も表情豊かだった。音色も明るく(サントリーホールの音響の良さともあいまって)ゴージャスだった。

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