Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

舟越桂 夏の邸宅展

2008年08月29日 | 美術
 夏の盛り、青空の広がる暑い土曜日に、東京都庭園美術館に出かけた。「舟越桂 夏の邸宅」展をみるためだ。開館時間の10時前に着いてしまったので、同じように早く着いてしまった人たちと同様に、木陰に入って開館を待った。やがて開館となり、会場に入った私は、その作品群に圧倒された。
 そして一昨日、8月の最後の1週間は夜間開館日だったので、もう一度行ってきた。外光のささない薄暗い室内でみる作品群は、一層濃密な空気を呼吸しているようだった。

 入ってすぐの大広間には「森に浮くスフィンクス」(2006)が置かれている。筋肉質の男性の肉体、しかし胸には豊かな女性の乳房があり、股間には男性の性器がついている。両性具有の官能的な肉体をさらしながら、みずからの異質性におびえ、「私は何か」、「お前は何か」と問いかけているようだ。

 2階のいちばん奥まった部屋には、「戦争をみるスフィンクスⅡ」(2006)が置かれている。私は最初、部屋の入り口でみたときには、笑っていると思った。しかし近くでみると、般若の面のように、口元がゆがみ、眉間に深いしわを寄せ、こめかみが大きく窪んでいるのがわかった。悲しみ、怒り、絶望感。じっとみているうちに、口元が動き、眼が動いて、逆に私が見据えられているように感じた。
 それにしても、この嘆きの表情は尋常ではない。1階の玄関脇には「戦争をみるスフィンクス」(2005)が置かれているが、あれはまだ超然としていた。それに比べてⅡのほうは、何かが壊れてしまったように感じられる。この先どうなるのか。

 両性具有のスフィンクスの連作は、官能的な作品群であるが、その意味するところは何か。私には、社会における異質性だと思われる。みずからを異質な存在と感じ、違和感をもって社会をみる眼を擬人化したもの、それを両性具有という、閉ざされた、官能的な形で表現したことにより、みるものをして、官能の深いところで異質性を感じさせる、それがスフィンクスの連作の意味ではないか。

 私には舟越桂について、ちょっとした想い出がある。2005年5月の連休に、オペラをみるためにハンブルクに出かけた。日中は何もすることがないので、郊外のバルラッハ・ハウスに行った。ユダヤ人ではなかったが、その作風のためにナチスに迫害された彫刻家バルラッハの美術館だ。小さな駅をおりて、道をききながら、静かな住宅街を歩いて辿りついた。
 入ってみて、驚いた。そこでは舟越桂という当時の私には未知の彫刻家の作品展が開催されていた。バルラッハの作品は小さな建物の半分くらい。残りの半分は舟越桂だった。正直にいって、「バルラッハをみにきたのに、なぜ日本人の作品をみなければならないのか」と思った。頭の切り替えができないので、舟越桂の作品には馴染めなかった。

 しかし今は、「舟越桂がバルラッハと並べて展示されたのには意味がある」と思うようになった。バルラッハはナチス社会にあって、異質な存在であった。孤立したその立場から制作された作品群は、社会における人間存在の一面の本質をついている。では、今の時代の人間存在を問うにはどうするか。その方法論のひとつがスフィンクスの連作だと思う。バルラッハの苦難の時代から約70年の年月をへて、今の時代の表現で受け継いでいるのではないか。

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