Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

英雄の生涯

2008年09月14日 | 音楽
 毎年、夏のオフシーズンに帰国して、国内のオーケストラを振っている大野和士が、今年は都響を振った。プログラムはすべてリヒャルト・シュトラウス。
(1)四つの最後の歌(ソプラノ:佐々木典子)
(2)クラリネットとファゴットのための二重コンチェルティーノ(クラリネット:三界秀実、ファゴット:岡本正之)
(3)交響詩「英雄の生涯」
 とくに「英雄の生涯」でいろいろな感想をもったが、まずは演奏順に記そう。

 「四つの最後の歌」では、繊細で暖色系の音によって、シュトラウスのかいたオーケストラのテクスチュアーが浮かび上がってきた。今日の大野&都響は好調だと感じられた。急な代役をつとめた佐々木典子は、声が出きらないうらみが残った。
 次の「二重コンチェルティーノ」は珍しい曲だ。私は初めてではないような気がするが、まったく覚えていない。第二次世界大戦の苦難をくぐったシュトラウスが、思いがけずおとずれた平和な社会で、余生の平穏な一時にかいた曲。最終楽章の第3楽章では老シュトラウスの茶目っ気が顔をのぞかす。演奏を云々する資格はないが、楽しめた。
 「英雄の生涯」では、ためらいのない、切れ味のよい大野の棒を堪能した。今の大野には輝きがある。都響もよく応えていた。このオーケストラは指揮者によって良くも悪くも変貌するが、昨日はもちろん良いほうに変貌した。雑な音が姿を消し、音に神経が行き届いて、集中力が途切れない。矢部と山本の二人のコンサートマスターをそろえていたことからみても、十分な体制で臨んだのだろう。

 すぐれた演奏だと、曲の本質にかかわる新たな発見があるものだ。この日は第3部の「英雄の伴侶」でそれがあった。英雄の伴侶を表現するヴァイオリン・ソロ(矢部が好演)が、英雄をさんざん翻弄した後で、オーボエ(広田の妙技)の甘美な旋律に答えて愛の場面に入る。音楽が高まりトゥッティによる盛り上がりをみせる場面は、官能の高まりだ。シュトラウスはその後、「ばらの騎士」の序奏をはさんで、「家庭交響曲」でもう一度赤裸々にえがく。

 「英雄の生涯」という曲は、第1部から第4部まで、すなわち「英雄」、「英雄の敵」、「英雄の伴侶」、「英雄の戦い」までは、漫画チックだ(もっとも、前述の「英雄の伴侶」の後半の愛の場面は、その範疇からはみ出すが)。
 第5部の「英雄の平和時の所産」と第6部の「英雄の隠退と完成」になると、音楽がぐっと深まる。シュトラウスがほんとうにかきたかったのは第5部以降だろうと感じられる。
 では、第1部から第4部まではどういう意図でかかれたのか、また、第5部以降の意味は何か。結論を先に言ってしまうと、私にはこの曲はベートーヴェンの「英雄交響曲」のパロディではないかと思われる。第1部「英雄」の冒頭主題からして、変ホ長調の分散和音が骨格にあり、変ホ長調の分散和音そのものである「英雄交響曲」の冒頭主題のエコーがきこえる。そのような始まり方をして、さらにベートーヴェンは想像もしなかったであろう「英雄の伴侶」をえがき、どこかパロディ的な「英雄の戦い」に入る。
 そして極め付きは第5部と第6部だ。「英雄交響曲」が壮絶な英雄の死(葬送行進曲)をえがくのに対して、平穏な余生をえがき、大往生に至る。これこそまさにパロディだ。

 何故パロディをかいたのか。私は今のところ、それはドイツの地方性の誇りだと思っている。シュトラウスは根本的にバイエルンの人だ。シュトラウスからみたとき、チューリンゲンの人(ワーグナー)とも、ライン河畔の人(ベートーヴェン)ともちがったドイツがあると言いたかったのではないか。けっして好戦的ではない、大らかな人生観の表明が「英雄の生涯」だと、今の私は思っている。
(2008.09.13.サントリーホール)

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