Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

テンペスト

2014年05月17日 | 演劇
 新国立劇場の「テンペスト」。がらんとして、なにもない舞台。電灯が一つ点いている。古谷一行が出てくる。プロスペローだ。具体的に書くことは控えるが、何気ない所作から芝居は始まる。滑らかな語り口の導入部だ。

 大量の段ボール箱が出てくる。段ボール箱を蹴散らして、人々が右往左往する。嵐に揺れるナポリ王の船だ。今は――今にかぎっては――過積載の遭難船のように見える。また、ずっと新国立劇場でオペラを観てきた者としては、ホモキ演出の「フィガロの結婚」も思い出す。でも、この「テンペスト」は「フィガロの結婚」より徹底している。今回の段ボール箱は壮麗でさえある。

 プログラムに掲載されている白井晃(演出)と松岡和子(翻訳)の対談によれば、段ボール箱は「プロスペローの記憶のガラクタ」(白井晃)を象徴しているとのこと。なるほど、そうだったのかと思う。でも、そこまで深読みしなくても、十分に楽しめた。あるときは――前述のとおり――遭難船の積み荷のように見え、またあるときは王子ファーディナントの試練として課せられた薪を暗示した。

 段ボール箱の山のなかで展開するこの「テンペスト」は、視覚的にも忘れ難いが、ドラマの本筋としてもシャープで、ずっしりした質量のある、忘れ難いものだった。本作はシェイクスピアが単独で書いた最後の作品と考えられ、その含意はシェイクスピアの舞台への別れと見なされているが、まさにその寂しさが、苦い味で伝わってきた。

 これを観客の側からいうと、プロスペローのその姿に、自らの老い、そしてやがて来る死を重ね合わせて、他人ごとではいられない感覚になる。それが苦い味となって残る。これは古谷一行の好演のためでもあるだろう。含蓄のある演技だった。

 あえていうなら、キャリバンにもう一工夫できなかったか、と思う。‘怪物’ キャリバンだが、今の眼で見れば、先住民だ。キャリバンには「怖れてはいけない。この島は、物音、音そして甘いアリアに満ちている。それらは喜びを与えてくれる。けっして傷つけない」(大意)と語るデリカシーがある。

 考えてみると、現代イギリスの作曲家トマス・アデスのオペラ「テンペスト」では、この台詞の部分にきわめて美しい音楽が付けられていた――この部分と、幕切れの和解の部分とが、とりわけ美しかった――。

 なにか、そういった工夫が、演出上にあれば、と思った。
(2014.5.15.新国立劇場中劇場)
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