平御幸(Miyuki.Taira)の鳥瞰図

古代史において夥しい新事実を公開する平御幸(Miyuki.Taira)が、独自の視点を日常に向けたものを書いています。

モーツァルトの難しさ

2008-12-16 23:04:50 | 芸術
 モーツァルトの旋律はとてもシンプルで、子供でも口ずさむ事の出来る曲が多いのですが、実は演奏する側には大変な才能が要求されます。その才能とは、魂の純粋さという事です。これがない人の演奏は、表現過多で、ミルクと砂糖を入れすぎた紅茶のようなあくどさが出ます。

 例えば、内田光子という女性はモーツァルトが大好きなピアニストですが、ピアノに寄りかかるように前屈みのスタイルは、見た目に美しくなく、またモーツァルトの本質から最も離れているのです。内田光子さんの演奏は、ナルシシズムが強く、自己陶酔の見本のような不快感が感じられます。1音1音がしつこくてくどいのです。モーツァルトを弾く場合、背筋を伸ばして、お行儀良く座り、唇に笑みを、目に好奇心を湛(たた)えて、本当に楽しく弾かなくては、その純粋な魂に巡り会う事は出来ないのです。

 卓越した技術だとか、曲に対する感情移入だとか、自己表現だとか、そんな世俗的な価値はモーツァルト弾きに必要ありません。純粋さ、心からの優しさ、素直さ、敬虔さ、それに少しばかりの賢さと、ユーモアを理解する知性があればよいのです。そうすれば、モーツァルトの曲は独りでに美しく演奏されるようになっているのですから。演奏する側が自分を押し付ければ押し付けるほど、モーツァルトの曲は濁って行くのです。

 このように、モーツァルトの曲は演奏する人を選びます。ですから、名演奏はほとんど存在しないし、僕たちが聴いているモーツァルトは、出涸(がら)しのモーツァルトか、化学調味料で誤魔化された料理のような、くどく変質したものばかりなのです。

 アイネ・クライネ・ナハトムジークという有名なセレナーデがあります。しかし、有名な割に良い演奏は知りません。キンキンした音の録音であったり、透明さのない濁った音であったり、変に重たくて、心から楽しくなるような演奏は皆無です。本当のアイネ・クライネ・ナハトムジークは、第1楽章は子供が飛び跳ねるほど楽しく歌い、第2楽章はどこまでも優しく神様が微笑んでいるような曲なのです。この曲の演奏に不満を覚えるたびに、自分が指揮したいと叶わぬ願いを抱くほどです。

 レオナルド・ダ・ヴィンチの有名な壁画『最後の晩餐』は大規模な修復がなされ、後の時代に塗られた顔料は洗い流され、オリジナルに近い色彩に復元されました。その色彩はどこまでも明るく、古い画集のような重々しさは感じられません。モーツァルトの曲も、レオナルドの絵と同じように、ロマン派以降の過度な装飾や、過剰な表現主義を洗い流し、小編成を耳を澄まして聴く事で、本来の繊細で優しく、それでいて深遠な魂の世界に触れる事が出来るのです。

 芸大の寮では何かと飲み会が行われたのですが、ある会の締めくくりに、声楽を中心とした十数人のメンバーによって、アヴェ・ヴェルム・コルプス(まことのお体~クーベリック,マティス盤Ave verum corpus)が合唱されました。この珠玉の小品は、レクイエムやミサ曲のCDにおまけとして収録されている事が多いため、編成が大きすぎてぼけてしまい、その和音の美しさをマスクしてしまうケースが多いのです。大は小を兼ねるというのは、音楽では成立しないのです。芸大の寮生によって歌われた時は、ピアノ伴奏だったのですが、とても美しく、また調和が取れていたのです。心を合わせるという一致の精神により、ただでさえ崇高な曲がより高みに至り、至福の世界を創り上げたのです。僕は彼らを心から尊敬しました。

 このメンバーのうち四人の女の子はモデルとして描いた事があるのですが、みな純粋な魂の持ち主で、この曲に相応しい人達でした。でも、メンバーには一人だけオカマが混ざっていたような…。彼も頼まれて描いた事があるのですが、夜のクラブでピアノ弾きのバイトをしていて、某有名女性デザイナーに一晩買われたという武勇伝を聞かされました。もしかして懺悔だったのかな…。悩める魂も又、それなりに純粋なのですが、闇は所詮闇ですから、その後、迷える子羊になったのかもしれませんね。どうか救いがありますように祈るばかりです。

     エフライム工房 平御幸
コメント (4)
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