父が亡くなりました。

昨日、家族や孫、ひ孫、そして多くの皆さまにお見送りをいただいて葬儀を行いました。
昨年の春に足を骨折し、そのまま入院生活が続いてましたが、高齢のこともあって徐々に体力を使い果たし、静かに旅立っていきました。

[左・35番清滝寺、右・34番種間寺]
退職したころから母と始めた四国八十八ヵ所遍路の旅も20年を超え、納経帳もそれだけの数を増やしました。
柩には、昭和61年4月に本格的に八十八ヵ所参りを始めたときの納経帳を収めましたが、それには後になって重ね印を押してもらったとのことで、平成14年までの五つの印が重なっています。

[左・1番霊山寺、右・88番大窪時]
土佐の古い言葉では、人が亡くなることを「みてる」といいます。文字で表すと「満てる」を当てると思うのですが、その人の命一杯に生きたことを言い表していると思いますが、父も満てました。
[Photo : Panasonic DMC-GF2 / LUMIX 14mm]

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昨日、家族や孫、ひ孫、そして多くの皆さまにお見送りをいただいて葬儀を行いました。
昨年の春に足を骨折し、そのまま入院生活が続いてましたが、高齢のこともあって徐々に体力を使い果たし、静かに旅立っていきました。

[左・35番清滝寺、右・34番種間寺]
退職したころから母と始めた四国八十八ヵ所遍路の旅も20年を超え、納経帳もそれだけの数を増やしました。
柩には、昭和61年4月に本格的に八十八ヵ所参りを始めたときの納経帳を収めましたが、それには後になって重ね印を押してもらったとのことで、平成14年までの五つの印が重なっています。

[左・1番霊山寺、右・88番大窪時]
土佐の古い言葉では、人が亡くなることを「みてる」といいます。文字で表すと「満てる」を当てると思うのですが、その人の命一杯に生きたことを言い表していると思いますが、父も満てました。

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