私的美遊空間

美しく愛しいものたちへのつぶやき

冒険!マヤ文明展③チョコレートで長生きした王たち、マヤ文字、仮面 BIZEN中南米美術館 岡山県備前市日生町

2023年06月27日 | 時空を超えて来たものたち

 

マヤ文明展のご紹介は今回が最終回です。

マヤの王様や王族の生活の一端を

チョコレート飲料、マヤ文字、宗教劇の仮面などからご紹介したいと思います。

 

 

 

*~ 周囲の器は、チョコレートを飲むためのカップ ~*

ここで、館長さんからの説明で驚いたことは

「チョコレートはマヤの王族のためだけの神聖で美味しく

そして長生き出来る健康飲料だった」

そして

実際に王たちは庶民よりずいぶん長生きだったとのこと。

 

※カカオは熱帯アメリカ原産の植物で、ココアやチョコレートの原料。

 

 

 

 

 

 

*~ 王の文字・マヤ文字 ~*

古代中南米唯一の複雑かつ芸術的な文字であるマヤ文字は、

当時の王家の生活、儀礼、時と暦、戦争、神々の世界等を今に伝えている。

マヤ文字は漢字やエジプト文字と同様に

表意文字+表音文字(正式には音節文字+表語文字)から成り立っている。

つまり、漢字と仮名に相当する文字があり、

漢字の旧字体と簡略体のような書体や、芸術的に文字を崩す自由度も持っている。

 

 

 

*~キリスト教への改宗と祭り、そこで使われた仮面~*

⇩⇩⇩

 

キリスト教の宣教師たちは、スペインの征服者たちと共に

マヤ地域に入り、各地に教会を建て布教を行った。

彼らは多神教のマヤの宗教を邪教と断じて排斥したが、

改宗をスムーズに行いカトリックの聖人を崇めさせるため、

聖人に先住民の神をだぶらせて祈る混合信仰も容認した。

またキリスト教をより身近に感じられる祭りも盛んに催した。

これらの木製面は

そんな宗教劇祭りのための道具だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マヤ文字を蛇腹式で立派な樹皮紙のノートに記載し、

石碑に刻んだ書記たちは、王族の中の超エリートでした。

すなわち、マヤ文字は王=王族の文字だった。

書記たちは王室文書司書、歴史家、系図学者、税務官、

婚姻や儀式の進行者、さらに天文学兼数学者といった

幅広い役割も果たしていたため

彼らにはアフ・イツァート=賢者の称号が与えられました。

 

 

 

 

*~ 紋章文字 (石碑風レプリカ)~*

左は「ティカルの紋章」

モチーフは鉢巻きを絞めた頭部。

※鉢巻を絞めるというのは、王に即位することを意味した。

 

右は「カラクムルの紋章」

ティカルと並ぶ二大超大国の一つにして、最大のライバルである

カラクムルはカーン(蛇)と呼ばれ恐れられていたので

紋章のモチーフも蛇でした。

 

 

 

*~ ティカルの石碑 26 拓本 ~*

国名       グアテマラ

出土地     マヤ低地南部

時代 古典期前期 紀元450年

ティカル歴代の王の名が刻まれています。

 

 

 

*~ 土製印章(ボディぺイティング用) ~*

国名          グアテマラ

出土地          南部高地

時代 古典期前期 紀元250年~600年

 

左が「ウサギ」、右は「サル」が彫られている。

 

 

 

実際に腕にペインティングした様子。

特別な植物(ハグア)の樹液をつけて肌に押し付けると

しばらくして黒い模様が浮き出て、一週間くらい取れない。

 

※記事は会場の説明版と館長さんのお話より。

 

* * *

 

マヤ文明といえば

知っていたのはピラミッドのような遺跡のことくらいでしたが

この度

マヤの王様が健康飲料として、チョコレートをたっぷり飲んでいたとか、

複雑かつ芸術的なマヤ文字の存在など

多くのことを学ぶことが出来ました。

次の展覧会はどんな内容でしょう。

今から楽しみです。

 

 

 

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*冒険!マヤ文明展*②土笛の音色が響くBIZEN中南米美術館 岡山県備前市日生町

2023年04月26日 | 時空を超えて来たものたち

*~ ソツィルハ・チマルマン象形土笛 ~*
国名 ー  グアテマラ
出土地 ー マヤ南部高地
時代ー 古典期後期 紀元600~950年

このソツィルハ・チマルマンは
暗闇の世界を支配する神様
背中に羽根が生え、豚鼻のコウモリの姿



「冒険!マヤ文明展」
前回は
①「都市遺跡、球技場、石碑」
今回は第二弾
②「土笛の音色が響く」です。

館長が自ら吹いて下さいました。
⇩⇩⇩

左の一番大きな土笛を吹く館長
⇩⇩⇩


この土笛は鳥の体が折れていて
吹くのが難しいとのこと。
それでも館長さんはきれいな音で鳴らしていましたよ。

隣の小さな笛は
びっくりするくらい大きな音が出ていました。
かなり遠くまで聞こえそうです。
⇩⇩⇩


館長さんはメキシコ大学卒。
館長を務めながら
講演活動もされておられます。

見学には予約が必要で
分かり易く楽しい解説が受けられます。
質問にも丁寧に答えてくれますよ。





こちらは縦笛
尺八のように吹きます。



*~ ムアン象形土笛(レプリカ)~*

国名ーホンジュラス
出土地ーコパン遺跡
時代ー古典期後期初頭 紀元600年頃

ムアンはシマフクロウ。
この世と闇の世を行き来する伝令役の神様

この土笛は
コパン遺跡を発掘していて見つかったもの。
王子様のお墓から出て来たそう。
残っていた顔料を元に作ったレプリカ。




*~ 笛(レプリカ)と太鼓 ~*

国名ーグアテマラ
出土地ーマヤ南部低地
時代ー古典期後期 紀元600~950年

王様たちは笛や太鼓の演奏をバックに
歌ったり踊ったりしながら、神様と一体化した。

この笛はコパン遺跡から出土した笛を
本物そっくりに再現したもの(左)と
残った顔料から元の姿を再現したもの(右)。
オカリナのような情感のある音色。
太鼓は鹿の皮を張って叩いた。


* * *

発掘された土の笛が
今でも音色を響かせるのに感動しました。
それを見事に演奏できる館長さんもすごいですね。

※参考 説明書きと館長さんのお話より。
写真撮影、掲載は許可を頂いております。
3月16日撮影

続きます。
次は何が出て来ますか、お楽しみに(^_-)-☆







コメント (10)
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古代アメリカ*マヤ文明展*①都市遺跡、球技場、石碑 BIZEN中南米美術館・岡山県備前市日生町

2023年04月16日 | 時空を超えて来たものたち

*~ マヤ遺跡 都市図 ~*





グアテマラのマヤ文明は
メキシコのアステカ王国やアンデスのインカ帝国と並んで
有名な文明ですが、いったいどんな文明なのか
ほとんど知識のない状態でした。

この度
BIZEN中南米美術館でマヤ文明展があるということで
会期終了近くになって、やっと行って来ました。

※撮影 3月16日




 *~ マヤパンの遺跡 ~*

後古典期に繫栄したマヤ低地北部(ユカタン北部)で
中心だったチチェン・イッァが衰退した12世紀頃から
覇権を握り、15世紀半ばまで栄えた都市。マヤ都市の
体裁は整えていたが、建造物は粗雑な作りだった。
スペイン人の到着を待つことなく、内乱で衰退した。
~ 説明文より ~

後古典期 マヤ文明の栄えた紀元300年~900年間の内で
紀元600年~900年の後期年間を指す。



*~ 古代メソアメリカ文明マップ ~*

グアテマラマヤ文明圏の中でもよく聞く
マヤパンチチェン・イツァーティカルコパン
を赤やオレンジ色でマークしました。



*~ 球技場の遺跡 ~*

ティカルの球技場(グアテマラ)コパンの球技場(ホンジュラス)
イシムチェの球技場(グアテマラ)・パレンケの球技場(メキシコ)





*~ ボールコートマーカー(平面拓本)~*

これは、チンクルティック(メキシコ)の
ボールコート(球技場)のピッチに埋められていた
マーカー(平面的な記念石碑)の拓本です。

中央にいるのは王様、胸、腰、膝にプロテクターを着けて
大きなゴムボールを腰でヒットしている様子。





*~ メキシコ チンクルティック遺跡・球技場 ~*
古典期後期 紀元591年





*~ 彩文深鉢 ~*

グアテマラ 
マヤ南部低地
古典期後期 紀元600~950年

中央に描かれているのは、サッカーのような
儀式の団体球技用のゴムボール。
中まで詰まっていて、とにかく硬くて重いから
プレーヤーはプロテクトをつけて試合をした。
負けたら生贄になったから、ホントの真剣勝負



*~ プロテクターを着けたプレーヤ― ~*

球技は敵味方1~5名ずつの2チームに分かれて
1つのボールをゴールに入れたり、当てたりした。

この球技はマヤやメソアメリカ全体、一部アンデスでも
行われた宗教儀礼で、時にはスポーツだった。

いつもは王様もプレイしていたが
特別なお祭りの時には捕虜も参加させられた。
捕虜負けたチームのメンバーは神様の生贄になった

会場の球技場はマヤの都市の中心部の代表的な施設
大都市には数か所~十数か所もあった。
最大の球技場サイズは、マヤ低地北部の大都市
チチェン・イツァには合計13か所、南部高地の
カラナルフユは12か所もの球技場があった。

*~ 説明文より ~*

捕虜が生贄になるのは分るけど
負けただけで生贄にさせられるなんて、怖いですね~💦



*~ ティカルの石碑 (レプリカ)~*
ハサウ・チャン・カウィール1世
グアテマラ

彩色された王の姿
⇩⇩⇩

緑色は神聖な色とされ
王が兜や背中の飾りに王の鳥ケツァルの羽根や
翡翠のアクセサリーで全身を飾った。



*~ ハサウ・チャン・カウィール1世の墓所(神殿)~*
ティカルの遺跡

この王は、戦国マヤ随一の偉大なクフル・アハウ(神聖王)で
紀元562年,母国ティカルを破り権勢を誇った
宿敵カラクムルを695年に打ち破った英雄。

この神殿はハサウ王の主な儀式の場であり
亡くなったあと墓所となった。






*~ キリグアの石碑 ~*

グアテマラ東部
古典期に繁栄したマヤ遺跡の一つ。
裏に碑文が彫られている。

キリグアは
始めはコパン王に支配(後見)されていたが
下剋上してコパン王を斬首した。
⇩⇩⇩

*~ ワシャクラフーン・ウパーフ・カウィール王の石像 ~*
コパン(ホンジュラス)

後見した衛星都市(従属国)キリグアのカック王に
下剋上され斬首までされた悲劇の名君。

※こうした石碑は特定の歴史上の人物に
捧げられたものと考えられている。



*~ 古代マヤ語族・移住マップ ~*



*~ 戦争の図 ~*

神殿を始めとするマヤの都市作りには多くの人手を必要とした
そのため、この当時の戦争は自国を守るためだけでなく
その建設に従事させる目的で
他部族(他国家)の男たちを捕縛するためでもあった。
※館長のお話より


* * *

なるほどねえ~
国を守ることや文化を守り発展させるのは
マヤ文明でも大仕事だったんですね。

昨日(4月15日・土)TVのふしぎ発見
「マヤ衰退・終わりの謎」について放映していました。

それによると
サン・クラウディオ湖の底に沈む年縞(ねんこう)には
10世紀・マヤ衰退時期にあたる
乱れた白い層と黒い層が発見された。

それは
干ばつや大雨の災害に襲われたことを表していた。
農耕民族であったマヤ族は
そのため衰退し都市を捨てて去って行った。

どんなに発展した文明でも
大自然には抗えなかったんですね。
現代の地球人にも耳の痛いことですね。

※続きますのでコメント欄はお休みしますね。
では、良い休日を(^_-)-☆


*~参考 館内説明文、館長のお話
「古代アメリカの文化と美術」(発行所 財団法人森下美術館)
写真は撮影、掲載の許可を頂いております。






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*姫路城は美しくも堅固な要塞*災禍や取り壊しを免れた奇跡の城

2023年03月21日 | 時空を超えて来たものたち

*~ 備前丸から見る天守閣 ~*

正面から見ると翼を広げた白鷺のようだとして
美しさが謳われる姫路城ですが
この備前丸から見ると雰囲気は一変して
要塞の趣を感じさせます。

塀や櫓には弓や鉄砲を放つ狭間(さま)や
石落としも開けられています。




*~ 備前丸から見上げた大天守 ~*

石垣の上に聳える大天守の高さに圧倒されます。
軒は白漆喰の総塗り籠め。
これは火災に強いというメリットの他に
天下泰平の江戸時代には、眺めて美しいことも
求められたようです。




到底、この石垣を登って到達するのは無理そうです。
上から弓や鉄砲を放たれたらひとたまりもありません。



*~ 菱の門(城内で現存する最大の城門)~*

城内に入るためには、まずこの菱の門を通らなくてなりません。
ここにも石落としなど迎撃用の設備があります。



*~ 天守閣と昼の月 ~*

天守閣は高い石垣で囲まれています。



*~「はの門」に続く階段 ~*

姫路城にはたくさんの城門があります。

まず「菱の門」を入ると
「いの門」「はの門」と「いろは・・・」と
それぞれの門に名称がつけられており
天守に至るまでの通路はまるで迷路のようです。

この通路の壁にも狭間が開けられ
ここからも迎撃出来る仕掛けになっています。
丸、三角、正方形が鉄砲用
縦長の長方形は弓矢用。



*~天守への入り口~*







*~ 大天守の断面図 ~*

大天守は地下一階、地上六階。
六階を目指して階段を登ります。



*~ 狭くて急な階段 ~*




*~ 階段と階段の蓋 ~*
右側に立てかけてあるのが階段を塞ぐ蓋です。 



姫路城は大きくて立派ですが
内部もさすがに広々としています。






*~ 大天守の役割の説明版 ~*
以下に書き出してみました。
⇩⇩⇩
天守内部には多くの武具掛があり、鉄砲や槍などが
収納されていたことがわかります。
その他の武具も武具庫に収納されていたとみられます。

「池田家履歴略記」には天守に池田輝政の遺産の金銀や
武器など大事な物を収納する倉庫でもありました。

現在、室内には何もありませんが、いざ籠城となれば
戦争に必要な物資で満たされていたことでしょう。



*~ 武具掛 ~*



*~ 武者隠し ~*



*~ 姫路城と城下のジオラマ ~*

内堀の外に大きな外堀が施されているのが分かります。



*~ 六階(最上階)~*


*~ 最上階にある神社 ~*

御祭神は長壁(おさかべ)大神「姫路城の守護神」


⇩⇩⇩
明治15年城内備前屋敷の火災
昭和20年7月3日大空襲には奇跡的に炎上を免れた。

姫路城の守護神であり、火災・災害等にご霊験あらたかで
人々の信仰が篤い。




*~ 最上階から見る姫路市街 ~*

下に見えている芝生のエリアは「三の丸広場」
中央に走っているのは大手前通り
正面はJR姫路駅。
その先は瀬戸内海に通じています。



*~ 西側からは西の丸全体が見えます ~*

*~ しゃちほこの変遷 ~*
⇩⇩⇩
***明治時代***

鱗や顔の表情が細かく作られています。


***昭和時代***

鱗は筋彫りに変化し、尾ひれの表情も簡素化されました。


***平成時代***

大きなものですから、焼くのにかなりの技術が
必要なのでしょうね。

🐕~おまけのワンちゃん~🐕

*~ グレート・ピレニーズ犬 ~*

三の丸広場に出ると大型犬がお散歩していました。
体重60キロもあり
名前はコテツ君(大きいのに可愛い名前♪)
物音にも大勢の人にも全然動じない様子。
私と飼い主さんが話している間は
どっしりと腰をおろして寛いでいました。
一度こんな大型犬を飼ってみたかったなあ~



歴代の大名の居城となった姫路城は
初めての築城以来、不戦城であって
災禍にも遭わず
廃城の危機も乗り越えて
幸運に恵まれた奇跡の城だったんですね。

そして、美しい外観と共に
堅固な要塞だったことを改めて知りました。





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初公開*姫路城最大の菱の門*二階櫓部 特別公開 名家老・河合寸翁の硯と葵紋の黒漆塗長持

2023年03月06日 | 時空を超えて来たものたち

*~菱の門(ひしのもん)と姫路城天守閣~*

2月27日好古園の梅花展を観たあとで
初公開の姫路城で現存する最大の城門・菱の門
二階櫓(やぐら)(重要文化財)の見学に行って来ました。



*~ 菱の門の入り口 ~*
二階櫓は黒漆に金の装飾が施された格子窓と
火打窓がアクセントになっています。
美しさと重厚感が同居していますね。
外観だけでも見応えのある城門です。

*~菱の門・二階櫓部特別公開のパンフレット~*
⇩⇩⇩
⇩⇩⇩
菱の門付近を拡大してみました。

菱の門を入ると
左側に広がっているのは西の丸
家康の孫・千姫が休憩時に過ごした化粧櫓があります。

菱の門から真っすぐ伸びた道は
天守へ続く「いの門」に突き当たります。



*~ 菱の門・二階の櫓の内部 ~*
中は東・中、西の3室があります。




南面の窓から外部が見渡せます。
西室と中室では窓の真下に隠し石落としが設けられています。
⇩⇩⇩
⇩⇩⇩
*~隠し石落としの蓋~*
⇩⇩⇩
*~蓋を開けたところ~*

下を通る人がよく見えます。
ここから石を落としたわけですね。



*~火打窓~*
黒漆で飾り金具のついた美しい窓。
この菱の門に向かって来る人がよく見えます。



*~天井の太い梁~*
主要な城門であったため室内には
武器が保管されていたようです。


この度は、この菱の門と同時に
二つの所蔵品初めて公開されます。
⇩⇩⇩
*~城主酒井家家老の川合寸翁(道臣)愛用の硯~*

河合寸翁は
姫路城主酒井家家老として
姫路藩の財政赤字を救った名家老
殖産や領民への教育などに力を注ぎ
27年かけて負債を全て返し終えたとのこと。

藩主と同様に茶人でもあったので
和菓子作りのために京都や江戸に職人を修行に行かせ
姫路銘菓「玉椿」の名付け親でもあるとのこと。
見た目もお味も上品な玉椿が
その頃からあったとは、知りませんでした。

※参考 電子じばさん館(詳しくはこちらをご覧下さい)


*~葵紋つき黒漆塗長持~*

*~黒漆塗長持の説明文~*

文字が薄くて読みにくいので下記に写しました。
⇩⇩⇩
この長持は菱の門二階櫓部の東室に置かれていて
中には酒井家の資料が収納、保管されていました。

酒井家資料はもともと酒井家が所有していた近世、近代の
文書の総称で、姫路市が酒井家から資料を受け取る際、
東京からこの長持に入れたまま姫路まで運ばれたようです。

酒井家所有の長持で葵紋が描かれていることから
酒井家と徳川家あるいは松平家とのつながりが窺えます。

その具体例として
安政3年には高松藩松平家から嘉代姫(かよひめ)を、
安永3年には将軍家から喜代姫(きよひめ)を迎えています。
いずれかの嫁入り道具だったのかも知れません。



*~東室から天守方面を見る~*



*~西側には西の丸の櫓がみえます~*




北面の格子窓から城内に入る一番目の門
「いの門」が見えます。



*~北面にある格子窓~*



菱の門を出て「いの門」までに見られる
三天守の美しい姿。
左から「乾小天守」中央「西小天守」右に聳えているのが大天守。
この角度からの姫路城は均整がとれていてきれいです。



いよいよお城の足元までやって来ました。



「いの門」を抜けて中に入りました。
城門は、い、ろ、は、に・・と続きます。
ここからくねくねと曲がりながら登って行きます。
天守は見えているのに
なかなか行き着けない。
敵にやすやすと入り込ませない設計になっています。




大天守がこんな間近に迫って来ました。




*~登閣口~*
いよいよ城内に入ります。

※この菱の門、二階櫓の公開は3月12日までです。
ついでに大天守まで登ってみてはいかがでしょう。

城内の様子は次回に続きます。



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*昭和のキューピーちゃん*服を新しく縫ってみました。

2023年02月14日 | 時空を超えて来たものたち

義母が大事に持っていた昭和のキューピーちゃん。
肌が煤けて年季が入っています。
服も手に入れた時のままのようで変色しています。

匂いを嗅ぐと
幼い頃に記憶した懐かしいセルロイド人形の匂い。
半世紀を経たと思われるのに
匂いが残っているのに感激。





裸ん坊にすると
今頃のキューピーちゃんより太目の二頭身
むっちり感がなんとも可愛らしい。

両方に束ねた髪が立ってるところや
モミジのように広げたお手々もキュートです。

この子は勧業銀行のノベルティとして
顧客に配られた貯金箱のようです。
背中に小銭の投入口があり
「ワリコー リッキー」と文字が彫られています。
どうやら名前はリッキーちゃんのようです。

ノベルティは
企業が自社の認知度やイメージアップのために
無償で配布するものです。



*~新しい服を着たリッキーちゃん~*
⇩⇩⇩


久しぶりにチクチクと縫物をしました。
小さくて縫うのが大変で
5時間もかかってしまいました。




*~ 服地の候補の二枚 ~*

どれがいいか迷って最後まで残った二枚の布。
結局
別な布地で練習として縫った服が
そのまま完成品になってしまいました(^^;)

フリルや飾りボタンをつけたりして
もっと可愛い服にする予定でしたが
これで精一杯💦
しばらくはこれで我慢してもらいましょう。
いずれは着物も着せてあげたいと思っています。





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*古代中南米の美術品2,300点もの収蔵品に驚き*素晴らしかったBIZEN中南米美術館

2022年06月02日 | 時空を超えて来たものたち

*~ 美術館前にあるコパンの石碑(レプリカ)~*

コパンはホンジュラス西部 古典期マヤの大都市
「コパンのマヤ遺跡」として1980年世界遺産登録

古典期マヤ・前期 紀元300年~600年
古典期マヤ・後期 紀元600年~900年



*~ 玄関付近 ~*

BIZEN中南米美術館は日生町(岡山県備前市)で
漁網の製造・販売を営んでいた故森下精一氏の
コレクションの寄贈により昭和50年3月に開館。




*~ 美術館の外壁は全て備前焼 ~*

収蔵品が素晴らしいだけでなく
美術館の建物自体も美術品。

外壁は全て備前焼の陶板で作者は
備前焼の大家 故藤原健氏(岡山県重要無形文化財)


 *~ すっきりと美しい館内 ~*


内装、展示には
画家・岡本太郎氏が主宰する現代芸術研究所の
専務・平野茂氏、同所長・長崎哲士氏が指導に当たられた。



*~ 香炉の蓋(中央肌色の物)グァテマラ ~*







*~ アステカの聖なる3戦士の神殿(レプリカ)~*





*~ ケーロ(彩文杯)木製 ~*

出身地ーペルー
用途ーチチャ酒用儀礼杯
使い方ー一対のケーロを両手に持ち片方を
相手に振る舞い、片方を自身が飲む。

※インカ帝国時代には土製、金製、銀製がある。



*~ 石の祭壇 ~*

出身地ーコスタ・リカ



*~ 古代アンデス織布 ~*




*~ 動物付き方型笛吹ボトル(二室タイプ)

出身国ーーーーーーーーーーーーーーーーーエクアドル
出身文化ーチョレ―ラ(紀元前1100年~紀元前100年)
使い方ーーーーーーー左右を交互に上下させて鳴らす。



*~ ライモンディの石碑の拓本 ~*








*~ ネガティブ文様壺 ~*
出身国ーパナマ



*~ 人とリャマ象形ボトル ~*
出身国ーペルー





*~ ネガティブ彩文碗 ~*
出身国ーエクアドル
出身文化ートゥンカワン(紀元前300年~紀元700年)




*~ 魚付き、動物付き単頚ボトル ~*

出身国ーーペルー
出身文化ーチムー
ナマズの背中にアルマジロが乗っているのが愉快~♪










*~ ティカルの石碑(レプリカ)マヤ文明~~*

* * *

ざっと紹介しましたが
気になる物はまだまだ沢山ありました。
古代中南米でそれぞれの文明を築いた人々の
生き生きとした息吹きが感じられて
時を忘れて遊んで来ました。

館長さんの詳しい説明も
楽しく拝聴し、勉強になりました。

*~現在開催中の企画展のポスターです~*
10月16日まで。
古代中南米のインディオたちの魂に触れてみて下さいね。
⇩⇩⇩


※参考ー「現代に華開く・古代アメリカの文化と美術」
発行所ー財団法人 森下美術館(現BIZEN中南米美術館)

詳しくは5月19日投稿の
「*僕は山猫のオセロット*BIZEN中南米美術館にいるよ。
会いに来てね」を合わせてご覧下さい(^_-)-☆


※撮影、ブログ投稿は館長の許可を得ています。






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*僕は山猫のオセロット*BIZEN中南米美術館にいるよ、会いに来てね♪ 岡山県備前市日生

2022年05月19日 | 時空を超えて来たものたち

現代の日本の皆さんこんにちは!

僕は中南米の熱帯雨林に住んでる
山猫のオセロットっていうんだ。





体の模様が素敵でしょ♪
鎖状の斑点が特徴だよ。
う~んと昔の人がお人形にしてくれたんだ。





館長さんが僕の紹介をしてくれたよ。

名前ー動物象形鐙型ボトル
出身国ーーーーーーーーーーーーーーーペルー
出身地域ーーーーーーーーーーーーーー北海岸
出身文化ーモチェ(紀元前50年~紀元700年)

自己PRーボクのモデルになった動物の名はオセロット。
小型山猫、ホントに可愛くて、
飼い主にとっても可愛がられてたの。

※美しく、人に慣れやすいので
当時からペットとして飼われていて
今もなお
山猫の中で最も人気があって乱獲が続いたため、
多くの国で絶滅危惧種に指定されている。
参考ーウイキペディア



*~古代アンデス文明及び中間領域マップ~*



僕の生まれたモチェは王国だったんだよ。
BIZEN中南米美術館では
僕とは違った国や文化圏の仲間たちもいっぱいいるんだ。
僕たちに会いに来てね~😺


* * *


*~ 現在の企画展のポスター 10月16日まで~*




*~館内の展示概要より~*

BIZEN中南米美術館は中南米考古学に特化した
日本唯一の美術館であり古代中南米の広範囲な
地理軸、時間軸の作品を網羅する
世界的にもユニークな美術館です。

メキシコ、グアテマラ、ホンジュラス、エルサルバドル
コスタリカ、パナマ、ドミニカ共和国、ペルー
コロンビア、エクアドル、ボリビア
計11ヶ国で出土した約2,300点の
考古学美術品を収蔵、展示しています。

その内訳は、紀元前4,000年~16世紀前に作られた
土器、石器、石像、石彫、金属器、織物
石彫レプリカ及び拓本です。


* * *

館内では館長さんから詳しい説明をして頂きました。
エジプトやインド、中国とは雰囲気の違う
面白く素敵なものたちに出会えました。
半年で展示の入れ替えをされるそうです。

※写真撮影、ブログへの投稿は
館長さんから許可を頂いています。

2,300点もあるのですから
一年で400点観られるとすれば
全て観るのに最低5年はかかりますね。
年に二回通うことになりそうです。
チムドンドンして来ました~(^^♪


続きます、お楽しみに(^_-)-☆





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三年ぶりに大石神社骨董市で遊んで来ました~♪ 桃井ミュージアムで雲火焼のお茶碗でお抹茶も♪

2022年05月16日 | 時空を超えて来たものたち

コロナ感染症が始まってから
大好きな骨董市もお休みしていましたが
昨日15日、三年ぶりに行って来ました♪

*~ 大石神社骨董市 ~*
毎月15日
兵庫県赤穂市上仮屋






午前中は用事があったため
着いたのは1時過ぎ。

ボチボチと片付けている店もありましたが
店もお客さんもそこそこの数が残っていました。







今回は何か面白い物があるかな~♪
狙いは小皿と花入れ。

入り口付近の店で赤絵の徳利を発見!
高さは20㎝くらい
胴の直径は8㎝ほどの円形です。
絵柄は松竹梅でお祝い事やお正月にぴったり。

気に入りましたけど・・・
どうやって花を入れたらいいんだろう~
散々考えましたが
イメージが全く湧かずに断念。
「千円引いてあげよう」って言ってくれたんですけどね・・・
三千円引きだったら考えたかも・・・(^^;)







小皿はこの八角形の変り皿を購入。
雌雄の水鳥が泳いでいる涼し気なところが気に入りました。
オスの尾羽の様子を見るとオシドリのようです。
このまま飾っても良さそうです。





~ 皿の裏側 ~

表から見ると
四角の皿を二枚重ねたように見えますが
それはだまし絵のようで
裏を見たらきれいな一枚物でした。
そう古い物ではないようです。






桃井ミュージアムは雲火焼の展示販売をしています。
ここではお抹茶を頂くことも出来ます。

兵庫県の伝統的工芸品に指定されている雲火焼のお茶碗と
雲火焼を模した当館謹製のお饅頭が
時代物の美しいお盆に乗せられて出て来ます。
フキの葉のお皿も素敵です。

美味しいお饅頭とお抹茶で幸せ幸せ~♪
面白い小皿も手に入ったし
満足の一日でした。

*~ 桃井ミュージアム ~*
兵庫県赤穂市御崎






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閑谷学校*論語の小径と紅葉美しい黄葉亭* 岡山県備前市閑谷

2021年11月30日 | 時空を超えて来たものたち

 *~ 論語の小径 ~*

閑谷学校の受付を出ると黄葉亭への看板があります。
⇩⇩⇩

渓流に沿って論語の小径が続き
450m先には黄葉亭(茶室)があります。





*~ 論語の小径について ~*

「論語の中でも親しみ易い二十章句を掲示しています。
閑静な自然に囲まれた論語の小径、
美しい風景を楽しみながら
散策のついでに論語に親しんでいただければ、
より旧閑谷学校の思い出が豊かなものになると思います。」

※ 看板より
(文字が小さいのでここに書き写しました)
以下同じです(訳文含む)




渓流沿いの紅葉を眺めながら進みます。



ゆっくりと孔子の言葉を
自分に照らしながら読んで行きます。









子曰(のたまわ)く
速(すみ)やかならんと欲すること母(な)かれ
小利を見ること母かれ
速やかならんと欲すれば 則ち(すなわち)達せず
小利を見れば則ち大事成らず。





*~ 訳文 ~*

孔子の弟子冉求(ぜんきゅう)が
「先生の説かれる道を学ぶのは大変嬉しいことですが、
私の力不足で、今だに身についておりません。」
と言うと

孔子が言われた
「本当に力がない者なら力一杯やって、
道中で力がつきてやめることになる。
しかし、お前はまだ力を使い切っておらず、
もうできないと自分で自分の壁をつくってやめているのだ。」




*~ 訳文 ~*

孔子が言われた
「人格者は落ち着いて謙虚であるが、
驕り高ぶったりしない。
そうでない者は驕り高ぶり、
落ち着きがなくてゆったりしていない。」



子曰く
過ちて改めざる、是(これ)を過ちと謂(い)う。













*~ 訳文 ~*

孔子が言われた
「人は本来、正直に真っすぐ生きていくものだ。
それを歪(ゆが)めて生きていられるのは、
まぐれでたまたま助かっているだけである」





子曰く
三人で行くとき必ずわが師あり。
其(そ)の善き者を択(えら)びて之に従い、
其の善からざる者にして之(これ)を改(あらた)む。
 
*~ 訳文 ~*
三人で何かをすると、必ずその中には自分の師となる人がいる。
其の善き手本となる人を選んで見習い
その善からざる人を見ては我が身を振り返り
そうならないように改めることだ。








*~ 訳文 ~*

子貢(しこう)が孔子に訊(たず)ねた
「一言で言い表せる言葉で、人が一生心がけ、
行っていかなければならないことがあるとすれば、
それは何でしょうか。」

孔子が言われた
「それは恕(思いやりの心)だよ。
例えば、
自分がして欲しくないことは他人にもしてはいけない。」

* * *

子貢は孔子亡き後、
弟子の中で最も出世し豊かになったと
ある本で読んだことがあります。
渋沢栄一も「論語と算盤」の中で述べているように、
人の上に立ち信頼を得るには
孔子の言う「人を思いやる心」が大事なんですね。




*~ 訳文 ~*

孔子が言われた
「人は、遠く先々まで見通した配慮ができないようであれば、
必ず近い内に心配事が起きるものだ。」




これは有名な一節ですね。
未だ成し得ていないことばかりです(^^;)




*~ 渓流の脇に立つ黄葉亭 ~*






*~ 黄葉亭 ~*

生徒から儒者、文人までが茶を楽しんだ憩いの場

文化10年(1813)に来客の接待や教職員、生徒の
憩いの茶室として建てられ、頼山陽や菅茶山など
儒者や文人を迎え親交を結ぶ場としても使用されました。
※パンフレットより

よく今日まで保存されたものですね。
保存に尽力された皆さんの熱意と努力の賜物と思います。
この素晴らしいお茶室が後々までも
遺されていくよう願っています。

* * *

閑谷学校の見学の後に
ゆっくりと論語の小径を歩みながら
自分の来し方を振り返ってみました。

論語の言葉が身に染みて
味わい深い時間となりました。






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閑谷学校*明治38年落成の美しい校舎を利用した資料館・西薇山先生顕彰碑*岡山県備前市閑谷

2021年11月27日 | 時空を超えて来たものたち

江戸時代に建てられた学舎や寄宿舎(学房)の跡地に
明治36年(1905)この新校舎が落成しました。
現在はその本館部分が資料館として公開され
旧閑谷学校の貴重な資料が展示されています。






*~ 資料館に取り付けられた登録有形文化財のプレート ~*

現資料館は国の登録有形文化財に指定されています。
明治38年落成の建造物が当時の姿のまま
遺されているのに感動します。




*~ 学房跡 ~*

向こうに火除山が見えています。




*~ 資料館二階の窓から火除山を望む ~*

火除山の向こうは講堂です。
火除山は
学房からの火事の延焼を防ぐために造られました。




*~ 明治のロマン薫る一階部分 ~*




*~ 端正でシックな雰囲気の廊下 ~*

「閑谷入学の者 礼儀正しく学問すべし」
講堂に掲げられた「定(さだめ)」は
ここにも息づいている気がします。




*~ 廊下の窓からの風景 ~*




*~ 黒光りする階段の手すり ~*




*~ 資料館の美しい佇まい ~*




*~ 紅葉美しい資料館前の石塀と校厨門風景 ~* 

※校厨門(こうちゅうもん)
学舎、学房(現資料館)へ入る門
石塀沿いに左に進むと講堂です。






*~ 西薇山先生顕彰碑 ~*

西薇山先生の功績を記した顕彰碑は
大正14年(1925)に竣工。
現在も資料館前に現存しています。

参考ー閑谷学校パンフレット
あいうえお論語(旧閑谷学校顕彰保存会発行)
撮影ー11月17日

* * *

これだけ多くの文字が刻まれているところに
教え子たちの先生への深い思いが感じられます。
熱心に教え導かれた子供たちは
ここで人生の宝物を得たのでしょうね。


次回は「論語の小道」をアップしますね(^_-)-☆






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岡山藩*庶民のための閑谷学校と学問の木・楷の木*紅葉が見事でした♪ 岡山県備前市閑谷

2021年11月20日 | 時空を超えて来たものたち

*~ 講堂 (国宝)~*

こちらは日本最古の庶民のための学校です。

岡山藩主・池田光政公によって
江戸時代前期の寛文10年(1670年)創建され
身分制度が厳しかった江戸時代において
庶民をはじめ他藩にも門戸を開きました。
※講堂(旧)が完成したのは延宝元(1673年)

建学の精神は儒教
孔子による論語が根底にあり
地方のリーダーを養成したいという光政公の願いでした。





*~ 講堂内で論語の勉強をする中学生たち ~*

開校以来、講堂の床に正座して論語を学ぶ姿は
旧閑谷学校の伝統でした。
今でもこちらでは論語の勉強を体験する姿が見られます。

訪れた時には、広島からやって来た中学生たちが
論語の朗誦の声を響かせていました。

 ~ 子曰、義を見て為ざるは、勇なきなり ~
シノタマワク、ギヲミテセザルハ、ユウナキナリ
※この一節だったかは定かでありません。

その声を聞いていると
ふっと江戸時代にタイムスリップしたようでした。
「礼節を重んじる」ことは
今の時代に甦ってもらいたい日本人の大切な心持ですね。






*~ 代々の生徒によって美しく磨かれた拭き漆の床 ~*

学ぶ心、礼節を重んじた近世の教育が
近代化の原動力となり、
現代にも受け継がれていることが認められ
平成27年(2015年)4月には
「近世日本の教育遺産群」として特別史跡旧弘道館、
史跡足利学校跡、史跡威宜園跡などとともに
最初の日本遺産に認定されました。



*~ 講堂と楷の木 ~*

講堂の屋根は備前焼の本瓦葺きです。




*~ 孔子を祀る聖廟と学問の木・楷の木 ~*

閑谷学校は二度目ですが、この度は
楷の木(かいのき)の紅葉を楽しみにして来ました。

楷の木は、元々日本には無かった木です。
中国山東省にある孔子の墓の周りに
弟子たちが多くの木を植えた中のひとつが
この楷の木でした。

その孔子廟から種を持ち帰り、育苗したものが
この聖廟前に移植され「学問の木」と呼ばれています。





*~ パンフレットの写真 ~*

向かって左が紅葉、左が黄葉するのですが
今年は夏の暑さで
右の木が、葉を秋まで保つことが出来なかったそうです。
一対の紅葉、黄葉を楽しみにしていましたが
残念なことでした。
現在の気候変動がここまで及んでいるとは
暗澹たる気持ちにさせられました。
遥々中国から渡って来た木です。
何とか復活出来ることを願って止みません。



*~ 二本の楷の木 ~*

葉を落とした右の楷の木が痛々しいですね。





*~ 楷の木と講堂 ~*

楷の木の大きさが分かりますね。





*~ 校舎を囲む石塀 全長765m ~*



*~ 石塀と紅葉 ~*

幅約1.8m、高さ2mのかまぼこ形
巧みに石を組み合わせ独特の塀です。
全国でも珍しいようです。
紅葉が見事でした。




周囲は山に囲まれています。
石塀があることで気持ちが更に落ち着きます。




*~ 火除山 ~*

こちらも珍しい施設です。
資料館と講堂を隔てています。
講堂が延焼しないように造られたものと思われます。




*~ 石塀と資料館前の校厨門 ~*




*~ 石塀の外から見る講堂 ~*

初めて閑谷の地に来観された光政公は
「山水閑静、宜しく読書講学すべき地」と賞賛され
この地に学校の設立を決めたとのこと。

その言葉通りの
静かで勉学に集中出来そうな雰囲気でした。





*~ 校門(鶴鳴門)~*

旧閑谷学校の正門
屋根は備前焼の本瓦葺き、棟には鯱が載せられています。



*~ 備前焼の瓦と鯱 ~*

後ろは楷の木です。


※ 参考 旧閑谷学校パンフレット
現地スタッフの説明より

続きは
資料館と論語の小道、黄葉亭などをご紹介しますね(^_-)-☆





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歴史のロマン香る宿場町*平福の風情と利神城*宮本武蔵初決闘の場。兵庫県佐用町平福

2021年10月26日 | 時空を超えて来たものたち

こちらは宿場町平福を代表する町屋の川端風景です。
作用川に沿って川座敷や土蔵が立ち並んでいます。

※兵庫県景観形成重要建物









佐用町は
岡山県に隣接する兵庫県南西部に位置しています。
平福はこの佐用町に属し
江戸時代には因幡街道の宿場町として栄えました。





今では邪魔者にされる背高泡立ち草ですが
作用川の縁を彩ってきれいでした。
向こうには川座敷や土蔵の家並みが見えています。





作用川は澄んで清らかな水が流れていました。
美しい街並みや美しい川面は
時代を越えて受け継がれてきたんですね。





宿場町平福の案内板です。
大名が参勤交代時に泊まった本陣や
雲を衝く「利神城」、宮本武蔵の初決闘の場など
コンパクトに
歴史ある史跡が沢山詰まっているのが分かります。





まずは
利神城ビューポイントである展望台に上ってみました。
正面の山は「利神山」
その山上にあるのが「利神城(りかんじょう)」です。
麓には平福の宿場町の風情を残す町並みが広がっています。





雲を衝く如く三層の天守が聳えていたので
その威容から「雲突城」とも呼ばれていたとのこと。
元々は、貞和5年(1349年)赤松一族の別所敦範が
利神山山上に城を築いたことに始まる。

秀吉の播磨攻略時に最後に残った作用三城の一つです。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後
播磨52万石の領主・池田輝政公の甥・池田出羽守由之が
平福2万2千石の領主となり
5年の歳月をかけ三層の天守を備えた利神城を築いた。

※国史跡
以上、「平福の書」作用町商工観光課発行
時を越え戦国の地へ・官兵衛ゆかりの作用「三城」を巡る
作用観光協会発行(作用位置図含む)
二つのパンフレット参考



利神山の麓には智頭線が走っています。
兵庫県上郡駅から鳥取県八頭郡智頭駅を結びます。
左の黒い屋根の建物は「平福駅」






本陣名残の松

鳥取池田藩の本陣跡に残る老松です。




戦国時代、わずか30年で城下町としての用を終えた平福は
江戸時代には因幡街道最大の宿場町として栄えました。





金倉橋(かなくらばし)

この橋の西側は宮本武蔵が13歳で初めて決闘した場です。



「何人なりとものぞみしだい手合わせいたすべし
われこそは日下無双の兵法者なり」という
新当流の達人・有馬喜兵衛の高札を見て
ここ金倉橋のたもとで初勝負を挑み
一刀のもとに倒したといわれています。

(武蔵が著した五輪書序文にこれを述べている)



金倉橋のたもと、向こうに見えているところが決闘の場です。
五輪書序文一節の碑あり。

* * *

宿場町として発展した平福には
そぞろ歩く楽しみの他にも
こうした様々な歴史があることも知って
思いがけず実りの多い訪問となりました。

川座敷の「お休み処・瓜生原(うりゅうばら)」では
川面を眺めながら手打ちそばが頂けるそうです。
こちらは、次回の楽しみにしたいと思います。

*~ お休み処・瓜生原 ~*
兵庫県登録文化財(H26.3.6)
江戸時代から昭和初期まで鋳物業を営んでいた瓜生原家の
邸宅を改修した交流施設。
現存する建物は文化7年(1810年)の建築で
旧宿場町平福の町屋の特徴的な建築物とのこと。

※以上、ぐるり作用 参考ー作用町観光協会発行







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*古い黄瀬戸の抹茶茶碗はなんとも味わい深くて断捨離出来ない*お抹茶はこんな風にこします

2021年08月29日 | 時空を超えて来たものたち

古色美しい黄瀬戸のお茶碗
ずいぶん前に骨董市で一目ぼれしたお茶碗。

お茶道具は、何度も断捨離してきたけれど
その度に生き残って来ているお茶碗です。




ゆったりと広がりのある姿
こくっりと深みのある色合い
思い切ったへラ目(白い矢印のところ)
年季の入った細かい貫入
濃い胆磐(タンパン)のかけ具合
どこをとっても、私にとっては
これ以上の黄瀬戸には出会えないだろうと思われるお茶碗です。



息子が買ってきたお菓子で一服。



息子にはガラスのお茶碗で涼しそうに。

「なんだ、俺が買って来たお菓子じゃないか!」
「いいの、いいの、まあ一服どうぞ♪」

* * *

お茶を点てる時には
まず抹茶をふるいにかけます。


~ 茶ふるい缶 ~
少しまとまった人数のお茶をこす時に使います。

蓋を開けたところです。
⇩⇩⇩



中にはふるうための三個の丸い金属が入っています。
ここにお茶を入れて蓋を締めて
くるくる水平に回すとお茶がこされます。
⇩⇩⇩



少人数の時には、一般的な「茶こし」で充分です。
⇩⇩⇩


お茶を入れてこします。
かたまっているお茶はスプーン等で潰しながらふるいます。
⇩⇩⇩



お茶がきれいにこされました。
空気を含んでふんわりしています。
⇩⇩⇩

これをすくってお茶碗に入れて点てます。
すぐに使わない時は茶缶に入れておきます。
しばらく使わなかった時には
再びふるうとふんわりします。

お茶を一服頂く時には
このようなひと手間をかけて
きれいに点てられるといいですね。








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羅漢の里*渓谷の紅葉と巨岩と瓜生羅漢石仏*

2020年11月19日 | 時空を超えて来たものたち

こちらは兵庫県相生市矢野町瓜生に位置する羅漢の里です。
羅漢渓谷に沿って紅葉がきれいでした。
(11月13日撮影)



羅漢の里は、西播磨丘陵自然公園にあり、
バーベキュー、キャンプ、ハイキング、
親子で遊べるアスレチックなど、
自然の中で豊かに過ごすことが出来ます。




また、本格的な石窯で焼き上げるパン焼き体験や木工体験、
刀鍛冶の作業工程が見学できる鍛刀場もあります。





冷暖房の備わったコテージもあり
ゆっくりと滞在することも出来ます。






憩いの広場と石刻モニュメント

羅漢の里までは、JR山陽本線、山陽新幹線
相生駅から車で20分ほどで着きます。
バスも出ています。


























こちらはハイキングコースの入り口です。
頂上まで3.8kmで通り抜け出来るようです。
三人の女性ハイカーが向こうから降りて来ました。
向こう側とこちら側に、それぞれ車を停めておいたそうです。
良いことを考えたものです。




途中にあった「げんこつ岩」
大中小の巨岩が林の中に鎮座しています。
ここから山頂までは3.7㎞
ハイキングにちょうど良い距離ですね。




ハイキングコースの途中です。
木漏れ日の中を緩やかな坂道が続きます。
私は途中から引き返して来ました。
山頂までは、もう少し体力がついてから
登ろうと思います。





こちらは、感状山城と羅漢石仏への入り口です。
なにやら、ここまでとは雰囲気が違ってきました。




感状山城跡へはこの階段で550m
今回はパスして、またの機会に登ろうと思います。
入り口には木製の杖がたくさん用意されていました。



こちらのお城の創建は鎌倉時代と伝えられています。
国の指定文化財になっています。





イチョウの葉が敷き詰められた道の左へ行くと
巨岩石の門があり、それを通り抜けると岩窟に到達、
その中に十六羅漢石仏が祀られています。
右の階段は、岩窟からの帰り道です。





山肌を見ると大きな岩で出来ていることが分かります。



お地蔵様の裏に回ると巨岩石の門があります。
ここを通って行きます。








巨岩石の門の周囲の景観です。
巨石の上に岩のかけらが灯籠のように積まれていました。








瓜生羅漢石仏の説明版によりますと、

この石仏は作者、製作年代は不明、
伝説によると朝鮮から来た僧
恵便(えべん)、恵聡(えそう)一行が
ここに隠れ住んで、後世の人に仏縁を結ぼうと
作ったと言われています。

また、もう一説では、
この石仏は真言宗の山伏の作で
戦国武士たちの霊を弔う供養仏であるとも言われ、
約400余年前の室町時代に彫刻されたと推定されています。




岩窟は幅7.7m、高さ約5m、奥行き約4m
その中には
釈迦如来を中心に文殊、普賢両菩薩、
その左右に十六羅漢が左右に並んでいます。




中心より左側の羅漢さんたちです。



岩窟内全体です。




岩の灯籠に石仏を拝観した人々が
それぞれの思いを込めて、拾った岩のかけらを
積んでいっています。
私も家族の人数分を積んで来ました。





これで羅漢拝観コースは終わり、
聖地巡礼した気分になりました。

イチョウの木の下をくぐって
憩いの広場に戻ります。

* * *

羅漢の里は今の時期
紅葉狩り、ハイキング、羅漢拝観、感状山城跡見学など
自然、文化、歴史を楽しむことが出来ます。
毎年行われる紅葉祭りは中止だそうです。

※参考 羅漢の里ホームページ
詳しくはこちらをご覧ください。





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