江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

二つの造船所

2019年05月28日 | 歴史・文化

 船が大小さまざまな船が石狩川本支流を白波を立てて往来していたとならば、船の新造と修繕の需要も少なくありませんでした。

 そのため、江別橋東側のたもとに堀川造船所(堀川熊太郎)がありました。
熊太郎は、越後(中蒲原郡沼垂町)の出身です。
船大工の修行を終えて明治期に渡道、やがて江別川右岸、江別橋の上流たもとで造船の業を開きました。

 「江別川沿岸堤防敷地使用願」(明治45年4月24日)によれば、堀川は遅くとも、同42年(1909年)4月より堤防地を借用し、商売をはじめています。
「(大川通りで)建物の大きな物は、川筋にあった堀川造船所です。
前の道路は、一段と低くなっていましたので、増水の時はこれを利用して新造船を川に降ろすのですが、一番先に水がつく格好な造船所でした」(『わたしの江別』島禎男)。

 同造船所は、熊太郎から熊吉など3代に継がれ、操業は昭和30年ごろまで続いていました。
場所も何度か変わりましたが、最後は千歳川左岸、現在の東光橋付近にあったようです。

 なお、この時期、江別には二つの造船所がありました。
一つは、堀川です。もう一つは、不明です。
ただ、44年9月発刊の(新潟県人写真帖編纂事務所)に、江別在住・造船業として堀川とともに同じ越後・中蒲原郡町出身の中川喜一郎の名があります。
現在地は江別町136番地となっており、あるいは中が造船所であったのでしょうか。
いずれにしろ、こちらの方は大正9年(1920年)、第一次大戦後の恐慌の中で閉業のやむなきに至ったのでしょう。
10年以降の江別町勧業統計では造船業は堀川一戸です。
大正期において、この町に二つも造船所があったことは、舟運のまち江別をかえり見るとき、補助航路とともに、忘れ得ぬ事柄と言えるでしょう。


註 :江別市総務部「新江別市史」221-222頁.
写真:淀船を曳き江別港を出る<写真4-11>
   同上書220頁掲載写真を複写し、掲載いたしております。



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