江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

ラッパの響き

2018年10月06日 | 歴史・文化

 兵村は、兵即農の村でした。
 開墾すべき土地を与えられていましたが、北門の鎖鑰たるに変わりありませんでした。非常の時は、武器をとって駆けつけなければならなかったのです。

 屯田兵の、兵村の、日常を律するのは厳しい軍律でした。その頂点にあるのが中隊長で、彼は兵と農と日常茶飯を含めた村生活全般の指揮者であり、絶対者でした。
 屯田兵の編成は、標準で一中隊(一兵村)は、兵員約240人(と家族)から成っていました。そして、兵村には、給与地(宅地、農耕目的地、追求地など)の他、官有地には中隊本部、練兵場、事業所、射的場、弾薬庫などの施設がなされ、初期には兵として磨きをかけるため、日常的に軍事訓練が繰り返されていました。

 服装は、(1)フランス式で、(2)上着は短く胴までしかありませんでした。(3)ズボンは、霜降り色で、左右の外側に赤い線が入っていました。(4)下士官(兵の上の武官)は、胸に黄色の紐で助骨を擬した上着が用意されました。
以上のように、原則として制定されましたが、実際に支給されたかどうかは不明です。
「屯田兵も貧乏だったんですね。鉄砲とか剣とはありましたが、服もズボンも官給品がなくなって、本部へ娘たちを集めて羽織でツッポの服を作り、袴で股引きをつくって靴がないのでワラジを履いて帽子だけはありましたが、妙な格好の兵隊でしたよ」(『屯田兵・家族のみた制度と生活』)。
明治8(1875)年生まれで、10歳の頃野幌に入った岡元助の話です。

 屯田兵は入地後三ヶ月間生兵(初年兵教育)と称し、毎日訓練がありました。各個教練、分隊教練と進んでいきました。それはビンタ生兵訓練と言われる程厳しいものでした。これに合格して、はじめて星一つの二等兵になりました。
 その後、毎日の訓練は無くなりましたが、月3回の終日訓練、それに春秋には琴似、山鼻との合同大演習などがありました。

 訓練の合図は、全てラッパによって行われました。
 午前4時の起床ラッパ、同6時の訓練開始は気を付けラッパ、正午の昼休みラッパ、午後1時には再び気をつけラッパ、同6時解散ラッパです。
 また、毎日の訓練は無くなりましたが、不時呼集があるのでおちおちしているわけにはいきませんでした。
「集合ラッパというのが時でもない時によくありましてね。それに遅れると営倉に入れられるので家の父などシャツを着るのを忘れていってひどい目にあったことがありました」(同前・小田マツ)。

 当初、兵役期間は、永世々襲でした。これが、明治23(1890)年8月の屯田兵条例の改正により、現役3年、予備役4年、後備役13年、計20年の服役期間が定められました。
しかも、その後20年間は補充兵役に服さなければなりませんでした。
 いわば、生涯兵役だったのです。

 

註:江別市総務部「新江別市史」155-157頁.
写真:野幌屯田兵屋
 北海道江別市野幌寿町19(湯川公園内)


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