当初、開拓使は樺太アイヌを対雁に定住させるため、農業を生業と考えていました。
しかし、計画を半農半漁に変更するのやむなきに至りました。
そして、「樺太移住土人ニ対スル救護並ニ授産計画」(以下「授産計画」)を展開するため、対雁に詰所と貯蔵庫を設置、開拓使勧業課員その他を常駐させました
すなわち、(1)土人取締5名(主任、上野正)と、(2)伍長7名(移民の中から委嘱・もとの総乙名、アイヌの世話役、月給4円)、(3)副伍長15名(もとの小使、土産取、アイヌの世話役、月給3円)です。
授産計画の主なものは、次のとおりです。
一、 住宅を建設して給与する。
二、 三カ年間、移民全員に米塩を給与する。
三、 石狩、厚田の両郡に漁場を買い上げて就労させる。
四、 漁業用資金は、開拓使より貸付する。
五、 未開地約4万9千坪を各人に割与し、開墾に従事させる。
六、 教育所を設け、児童の教育にあたる。
七、 製網所を設け、製麻、製網の方法を教える。
その他、「樺太移民取締方仮則」(明治10年1月)により、病人は本庁に入院措置をとる他、さらに村内に医者を1名駐屯させ、急病人や軽い処置にあたらせる、など万端にわたりました。
この授産計画は、明治12年(1879年)6月までの三カ年です。
開拓使の目論見は、この間に移民たちに自立自営の場と技術などを獲得してもらおうというものです。
しかし、3年が過ぎたとき、部分的な成功はともあれ、全体では目標にはほど遠い、というのが結果でした。
「明治12年7月以降、予定通り扶助を打ち切る訳にも行かず、巳むを得ず扶助米の給与のみを廃止して、漁業は従来どおり資金、物資、漁具を貸与して経営せしめ其の外の救護通り明治15年迄、第2期計画として延長実施する事になった」(『北海道舊土人保護沿革史』)。
註 :江別市総務部「新江別市史」134-135頁.
写真:宗谷から再移住に先立ち石狩地方の実地検分を行った際の写真
同上書133頁掲載写真を複写し、江別創造舎ブログおよび江別創造舎facebookに掲載いたしております。
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