体勢としては、全面開田の流れは変わりませんでした。
美原の春日セツエは、次のように記しています。
『1人反対する茂のところへ役場の人が来て「水田になったら女の人は長着物を着て家の中におれますよ。こんな貧乏から抜け出すことができますよ」と玄関先で話していたのを記憶しております。国の政策とあればしかたありません。ウシを全部手放し、水田に切り替えました』(昭和61年1月刊「家の光」所蔵「わが家の家族三代」)。
46年度、広大な篠津原野の泥炭地は一面の美田に生まれ変わりました。
この篠津総合開発に前後し、この時期、各における造田化も進みました。
結果、25年当時581.4haに過ぎなかったしないの水田は、30年704.8ha、35年1,561.4ha、40年3,455.6haと飛躍的に伸張し、さらに拡大されていきました。
しかし、この北海道農政史に残る一大プロジェクトであった篠津総合開発が完了する45年、米の生産調整という名の減反政策が始まったのは、いかにも皮肉としかいいようがありませんでした。
註:江別市総務部「えべつ昭和史」230頁.
写真:篠津総合開発南美原幹線用水路工事(昭和32年9月)
同上書229頁掲載写真を複写し、当ブログ掲載いたしております。
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