江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
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養蚕得業・篠津兵村

2018年09月24日 | 歴史・文化

 篠津屯田は、中隊として江別兵村に包括されていました。その意味で、篠津兵村と呼ぶのは誤解を与えるかもしれません。
 しかし一方、たしかに屯田兵制度下では、同じ中隊でありましたが、もともと篠津村は江別村(札幌郡)とは異なり、石狩郡に設定されていました。そして、明治16(1883)年には、江別、対雁両村戸長役場とは別に篠津村戸長役場が置かれました(同22年廃止)。その後も39年の2級町村制施行まで篠津村として総代人を出したように、江別兵村では括れない画然とした生活空間がありました。
 異なる生活空間とは、他でもない江別村・対雁村とは石狩川をもって画されており、石狩大橋架橋(大正9年・1920年)以前、兵事以外の日常生活では大河が障壁となって自然別個の空間が形成されていました。それは、便、不便を超えて空間への愛着を強め、昭和10(1935)年の「江別町字地番改正」まで「兵村」が字(とおり名)となり、今でも篠津の兵村と呼び継がれています。

 篠津兵村の生成過程には、極めて特異なものがありました。
 開拓使は、養蚕を屯田兵の生業として進めていました。屯田兵が兵士としての訓練や、その他公役に力を削がれるのを見越し、兵以外の家族による家内労働として着目した側面もありました。さらには、貿易面における生糸の重要性もあったと思われます。
 明治9(1934)年8月、開拓使物産局に招聘された専門家の一人、上州島村の田島弥平が豊平川を下り、対雁村からシノツブトに分入りました。養蚕事業の適地見分でした。
「村人其樹ノアル処ヲ探討シテ深ク篠津猪ニ入ル猪ノ両岸皆桑ナリ 其桑数種ヲ採ラシメ 精良ニシテ尤大ナルモノヲ検スルニ 葉ノ長サ一尺二寸 幅八寸ニ至ルモノアリ(中略)是レ信ニ天賦蚕桑ノ地ト謂フベキナリ」(『続養蚕新論』)と、田島は嘆声をあげました。
そして、「北海道ノ如キハ、本来原野ニ富ミ万木ニ足ル 速ニ之ヲ開墾シテ勉強怠ルナケレバ 今ノ原野ヲ変ジテ陰然タル桑園ヲ起シ 物産ノ盛ンナrコトヲ 後来刮目シテ之ヲ観ントス」(同前)と、資源の豊富さに筆調も押さえ難きものとなりました。

 翌9年、シノツブトに3階建養蚕室(上州式100坪)が建ちました。
その他施設が整えられ、琴似(ことに)、山鼻の両屯田から各戸2名の割合出張、養蚕技術の指導を受けました。両屯田の者は、伍長、軍曹らに引率され、丸木舟で豊平川を下りました。
対雁からシノツブトに渡り、蚕事習得に賢明となりました。
 明治12(1937)年、養蚕施設は開拓使勧業課から屯田事務局に移管されました。前後してシノツブトに屯田を設けるべく測量が開始されました。
やがて、明治14(1939)年4月、屯田兵入地後の行政処理上の必要性などを考慮し、シノツブトへ新たに村を設定しました。これが、篠津村です。第一次篠津屯田19戸81名の入地は、その三ヶ月後でした。

(中略)

 この第一次篠津屯田19戸のうち8戸が平民で、養蚕振興に応じ入地したといわれています。なぜ、養蚕得業者を入れたかについて、森岡清美氏の論稿「北海道篠津兵村の展開と村落構造」によると、
(1)養蚕は集約的労働が必要だが、営農期間の短い北海道では手が回り兼ねたこと。
(2)野桑は、桑質がやや粗硬、収繭量も多少劣ること。
(3)北海道の販路の狭隘性、などが原因として挙げられました。

 明治15(1940)年2月、廃止置県が断行され、屯田兵は陸軍省に移管されましたが、屯田兵制度そのものには変わりはありませんでした。
 篠津においては、明治18(1943)年30戸、19(1944)年10戸を加え、計59戸となりました。18年、19年は全て士族移民でした。既に、養蚕得業者の名はありませんでした。



註:江別市役所「新江別市史本編」を参照。
写真:「篠津の丸太校倉造兵屋」
   「新江別史市159頁 写真3-15」撮影掲載いたしております。


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