江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

越後屋呉服店

2009年03月06日 | 歴史・文化
 江別市街一条二丁目の越後屋呉服店(水落熊吉)は、道央一円に名を知られた町内最大の店でした。

 越後屋呉服店は、主に呉服太物を扱っていました。
 昭和10(1935)年当時、店員20人(番頭5人、丁稚と小僧15人)、奥向きの手伝いが5人という従業員数から、その繁昌ぶりが伺えます。

 越後屋呉服店の名物は、正月の初売りで、夜明け前から行列ができていました。また、富士見座を借り切り、お得意様を招待しての映画やレビュー、それに豪華な抽選会が話題となっていました。
そして、お得意様になると商号(エ)(原文は○内にエを記載)の通帳をもらいました。町の人にとって、商号(エ)<丸エ>をもらうことは自慢でした。

 『越後屋さんは、羽振りが良かった。この石狩管内全部から買いにきたんだから。お得意様になると通帳くれるの。それをもっていると、「あんた、たいしたもんだ」って言われたんだから。(店主が)京都に仕入に行くと通帳もっている人にお土産くれるんだよ』(高柳武治「私の紳士録」)。

 昭和11(1936)年8月、従来の土蔵様式の店舗を含め、外壁を茶系のタイル貼りとした木造二階建てに改築、面目を一新しました。
さらに、昭和15(1940)年には帯広に支店を出す勢いでした。
 しかし、当時日本は、満州事変により国際的な反発を招き、国際連盟を脱退し(昭和8年8月)、以降国内の軍国主義化、強権政治化を深めながら中国への侵攻を強めていきました。
昭和13年1月、政府は「昭和13年度物資動員計画」を閣議決定しました。ここから国内のあらゆる分野が戦時体制に組み込まれていきました。加えて、昭和15年10月、農林省は、「牛乳及び牛製品配給統制規制令」を公布しました。牛乳などは母乳の少ない満一歳以下の乳児や、病弱者に優先的に販売するよう規制したのです。また製菓や珈琲用の供給は中止するなどの措置をとり、必要最低限以外は、全て軍需へ投入せよというものでした。

 このように、越後屋呉服店が帯広に進出しようとした時期は、全ての品物が軍需第一に転換した時であり、タイミング悪かったのです。
 しかも、昭和15年7月7日、いわゆる「7・7禁止令」(「奢多品等製造販売制限規則」)が施行され、主な呉服店太物類も製造禁止、そして販売禁止となりました。ちなみに、伝統産業の絹織物で栄えた京都の西陣は壊滅的な打撃を受け、大量の失業者を出し、社会問題となりました。

 越後屋呉服店帯広支店は、昭和18年に閉店のやむなきに至りました。本店も昔日の賑わいは遠く、音もなく静まり返っていました。

 『物資統制が厳しくなると、店を開いても売るものがだんだん乏しくなる。昭和13年6月に出された「内地民需向け綿製品の供給禁止」は、松丸呉服店の経営に暗い影を落とした。砂糖の統制も早くから行われていたが、昭和15年10月から大都市で一人一ヶ月260グラムという配給制が始まる。営業用もその大分前から大幅に削減されていた。粉、砂糖がなければ「江別まんじゅう」も作れない。業績はみるみる悪化していった』(『わが生涯書き留め申し候』松丸篤蔵)。

(参照)
当ブログ2009年 1月15日(木)「王子航空機の会社設立と江別飛行機建設」
当ブログ2008年11月15日(土)「番外編!染織美術家山岡古都作暁の女神」
当ブログ2008年 9月25日(木)「富士見座」
当ブログ2008年 9月24日(水)「千歳座」
当ブログ2008年 7月21日(日)「江別村商家」

註:江別市総務部「新江別市史」443-448頁.
写真:山岡古都作「藍古典譜」
   長浜の鬼絞りちりめんに印度藍の加工着尺「古典譜」です。
   印度藍は、染め料の中でも最も貴重な染料とされています。
   素人撮影のため、古都染人の藍染めの濃厚さが表現されませんでした。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 自動車の登場 | トップ | 本日!こども環境コンテスト... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史・文化」カテゴリの最新記事