議会内においては、これら一連の動きに疑念をもつ議員も二、三にとどまりません。
昭和33年12月の議会における一般質問の抄出は、次のとおりです。
武田議員
札幌急行鉄道も一朝一夕にしてやるものではない。
市民、議長名で、「(市民から)出資を募るならば、もう少し確実なものが欲しい。
私は、海のものとも山のものともわからぬと思う。
今度特別委委員会ができたが、運動して、どうしてもダメだという時がくるのでないかと思う。
なにやあ、くすぶり続けるものがあったのでしょうか。
それにしても、この思い切った発言は、一部に不吉な予感を呼び起こさずにはおきませんでした。
昭和34年春は、地方統一選挙の季節でした。
依然、認可のおりぬまま、鉄道問題は、しばらくお預けとなりました。
大久保も3期目の道議の椅子を賭けて戦うことになりました。
結果、大久保は、3選を果たし、道議会で商工労働委員長のポストを得ました。
これまた、江別との縁深い町村新知事の登場で、札幌急行鉄道の建設に向け、受け入れ側の事態は一層好転したかにみえました。
ところが、その頃、肝心要の五島は糖尿病が悪化、自宅療養では間に合わず入院中でした
病状は好転せず、江別再訪どころではありませんでした。
そして、事態は一気に最悪の局面を抑えました。
34年8月14日、私鉄王五島慶太は帰泉し明日。
先に、五島が動けば、全てが動く、と記しました。
すなわち、札幌急行鉄道の挫折と結びつくのは、ある意味では当然の帰結であったといえましょう。
(参考)
2012年 6月18日(月)「江別市財政負担」<江別市史275頁>
註 :江別市総務部「えべつ昭和史」845-846頁.
写真:昭和41年12月開業した大麻(おおあさ)駅
同上書272頁掲載写真を複写し、当ブログ掲載いたしております。
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