
屯田兵に次いで江別市開拓の基礎を築いたのは、開墾移民団の人々でした。
明治15(1882)年、鉄道の開通に伴い、5月には長野県の人牛山民吉なるものが、札幌に運送業を営む石川正蔵等と共に開成社を組織し、江別から幌向(ほろむか)にかけての鉄道沿線の地を借り受けて開墾に着手しました。また旧宇和島藩主伊達宗城は、野幌の今の伊達屋敷付近にも屯田兵村に近接して若干の私有地が設けられ、占有の棒杭が建てられました。
しかし、いずれもが明治19(1886)年越後長岡の人、大橋一蔵として設立された北越殖民社の事業には及びませんでした。
北越殖民社の創立について、大橋一蔵は,新潟県南浦原郡下鳥村の郷土の家に生まれ、青年になって勉学を志して上京しました。しかし、同窓には慷概の士が多く、要路の者に誠を知り、萩の乱に連坐して、終身懲役の判定を受けて市ヶ谷の獄に下ったのでした。幸い同士の斡旋みより明治14(1881)年特赦をもって帰郷することができました。大橋は、獄中でも「守備と開拓」を建言し、出獄後も北海道事業に関する意見を当事者に開陳していました。
明治19(1886)年1月、新潟県長岡町坂ノ上町の旧長岡藩士三島億二郎宅に本社を置く、北越殖民社を創立しました。
同年4月、大橋は、近親の大河原文蔵(実弟)、大橋順一郎らと共に、渡道、江別太に試験的な移民村を創設したのです。
そして、北海道長官に、「移住民之儀ニ付願」を提出し、同年6月「願地願」の許可を待たぬまま、越後・蒲原郡より最初の移民10戸(一戸五町歩)が入植しました。
場所は、、江別市街より石狩川上流2キロ程にあり、既に測量、伐木、それに小屋掛けもされていました。
これが、殖民社の試懇地・通称越後村です。
この北越殖民社は、移民による農林の業を営む会社で、集団移住の中でも稀にみる成功例の一つに数えられています。
(参考)当ブログ:6月22日「国内3番目に開通した幌内鉄道ー江別駅の誕生!」
当ブログ:6月20日「移民扶助規則設定」
当ブログ:6月11日「江別屯田兵入地」
当ブログ:6月 9日「場所請負制の成立」
註)北海道「江別市史」・江別市教育委員会「新江別市史」参照。
写真:「北越殖民社」江別市郷土資料館内資料2007年撮影許可を得て掲載していたしております。
明治15(1882)年、鉄道の開通に伴い、5月には長野県の人牛山民吉なるものが、札幌に運送業を営む石川正蔵等と共に開成社を組織し、江別から幌向(ほろむか)にかけての鉄道沿線の地を借り受けて開墾に着手しました。また旧宇和島藩主伊達宗城は、野幌の今の伊達屋敷付近にも屯田兵村に近接して若干の私有地が設けられ、占有の棒杭が建てられました。
しかし、いずれもが明治19(1886)年越後長岡の人、大橋一蔵として設立された北越殖民社の事業には及びませんでした。
北越殖民社の創立について、大橋一蔵は,新潟県南浦原郡下鳥村の郷土の家に生まれ、青年になって勉学を志して上京しました。しかし、同窓には慷概の士が多く、要路の者に誠を知り、萩の乱に連坐して、終身懲役の判定を受けて市ヶ谷の獄に下ったのでした。幸い同士の斡旋みより明治14(1881)年特赦をもって帰郷することができました。大橋は、獄中でも「守備と開拓」を建言し、出獄後も北海道事業に関する意見を当事者に開陳していました。
明治19(1886)年1月、新潟県長岡町坂ノ上町の旧長岡藩士三島億二郎宅に本社を置く、北越殖民社を創立しました。
同年4月、大橋は、近親の大河原文蔵(実弟)、大橋順一郎らと共に、渡道、江別太に試験的な移民村を創設したのです。
そして、北海道長官に、「移住民之儀ニ付願」を提出し、同年6月「願地願」の許可を待たぬまま、越後・蒲原郡より最初の移民10戸(一戸五町歩)が入植しました。
場所は、、江別市街より石狩川上流2キロ程にあり、既に測量、伐木、それに小屋掛けもされていました。
これが、殖民社の試懇地・通称越後村です。
この北越殖民社は、移民による農林の業を営む会社で、集団移住の中でも稀にみる成功例の一つに数えられています。
(参考)当ブログ:6月22日「国内3番目に開通した幌内鉄道ー江別駅の誕生!」
当ブログ:6月20日「移民扶助規則設定」
当ブログ:6月11日「江別屯田兵入地」
当ブログ:6月 9日「場所請負制の成立」
註)北海道「江別市史」・江別市教育委員会「新江別市史」参照。
写真:「北越殖民社」江別市郷土資料館内資料2007年撮影許可を得て掲載していたしております。
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