江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

北電の進出

2009年04月14日 | 歴史・文化
 戦争の本格化は、軍需の増大を促し、関連事業等の活況を呼びました。

 特に炭鉱方面での好況は、例年2,3千人といわれた札幌に蝟集するルンペンを激減させたほどでした。こうした軍需関係の活況は、やがて重化学工業の活性化へと結びついていきました。それらは、当然のこと、電力需要の激増を招きました。

 当時、道内発電会社は、水力が中心であり、冬季渇水期の補給、予備出力などの悩みは大きかったようです。そこから火力発電所の建設が緊要の課題となりました。
折柄、江別以北を発・送電区域とする北海道電燈株式会社では、炭鉱地帯周辺区域の電力事情を解決するため、火力発電所建設の適地を求めていました。
適地とは、(1)空知炭田に近く、(2)石炭輸送に便利で、(3)汽缶補給水が良好であり、(4)冷却用取水が便利、などの条件を満たす所でした。
 適地は、最終的に砂川町と江別町の二つに絞られました。砂川と江別の誘致合戦は、熾烈を極めていましたが、地質、水量、燃料の3点において江別が優位に立っていました。

 昭和9(1934)年9月、江別町会は、(1)建設に関する不動産に対し、不動産取得税不加税を徴収したときは、同額を会社に寄付すること、(2)工場及び関連施設用地役37,000坪を会社に寄付すること、を議決しました。ここに、税金はなし、用地は無償提供とお膳立てができました。
 残る問題は、関連施設用地役37,000坪の土地代金4万円を、緊縮財政の中でいかに調達すべきかということでした。これは、前年度の繰入金15,000円などに加え、基本財産を一時支消し、これに充当することとしました。

 昭和9(1934)年10月、江別火力発電所の工事始まりました。
そして、翌10年12月、出力12,500キロワットの1号機の完成、昭和11(1936)年12月、2号機(15,500キロワット)、14(1939)年1月、3号機(25,000キロワット)と順次運転を開始し、ようやく江別火力発電所の全面操業となりました。
 なお、北海道電燈株式会社は、江別発電所着工時の昭和9(1934)年12月に大日本電力株式会社に社名を変更し、17(1942)年4月には日本発送電株式会社となりました。

 鉄道網の発達により停滞を余儀なくされた商業界にとり、発電所の建設は、昇天の慈雨となりました。火力特需でした。
 「目下第1期工事を完了なし、第2期工事半ばなる火力発電所には、東京方面より来る各専門技術者を合して、毎日420余名が明日の江別を工業地帯となす原動力たる発電所の完成に汗を流し、油にまみれていました」(昭和10年6月21日付北海タイムス)。その他新夕張川治水工事に500人、同鉄道建設に200人の作業員も入り、「労働者払底/この頃の江別」(前掲)と報じられていました。

註:江別市総務部「新江別市史」456-458頁.
写真:昭和10年操業の江別火力発電所(同上書457頁掲載写真7-30)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 陶芸の歴史 | トップ | ガソリンと木炭 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史・文化」カテゴリの最新記事