江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

ガソリンと木炭

2009年04月15日 | 歴史・文化
 昭和13(1938)年5月、「石油販売取締規則」が施行されました。

 「ガソリンの一滴は、血の一滴」のスローガンが叫ばれ、ガソリンは軍需優先となり、民需は極端に圧縮されました。
 同年6月1日の北海タイムスは、「道庁は3月にガソリン警官38人を発令、統制強化を強めると共に、7月からガソリンの四分の一に5%のアルコール混入を決定」、と報じています。
翌14(1939)年10月には「石炭販売取締規則」が実施されました。

 石油の統制により、運輸業者(自動車)は打撃を受けました。例えば、13年、札幌では、市電の代替に木炭バス5台を購入、余市と浦河では馬が自動車を引く「馬動車」が登場しました。
 昭和14(1939)年2月、ガソリンから木炭車への転換が進められました。
札鉄では、札樽間バスの木炭テストを行いました。「その結果、この国鉄バスには時速45キロの折り紙が附けられ急勾配の上りにも合格(中略)将来は札鉄の省営バス全部を血の一滴にも比すべきガソリンから別離して木炭バスを大いに活躍せしめよう」(昭和14年5月27日付北海タイムス)との希望的観測を述べました。また、貨物輸送は、トラックに代わり荷馬車への転換が進みました。
さらに、鉄道など公的交通運輸の手段をもたない僻地などは、ガソリン統制は地域の生活を打撃しました。

 昭和16(1941)年8月、アメリカは日本への石油輸出を禁止しました。経済上の国交断絶ともいえます。そのため、バス、タクシーなどへのガソリンの配給は、全面的に停止されました。軍隊と軍需関係以外の交通運輸機関は、再び馬車と馬橇の時代に戻りました。代用燃料(薪、石炭、ガス、アセチレンガスなど)の開発も試みられましたが、さしたる結果をもたらすものではなかったようです。

(参考)当ブログ2009年3月5日(木)「自動車の登場」

註:江別市総務部「新江別市史」463-464頁.
写真:ドイツポルシェミュージアム展示車
 ドイツポルシェミュージアムにて撮影許可を得て、掲載いたしております。
 
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