江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

水産業の転換

2009年04月23日 | 歴史・文化
 北海道沿岸漁業は、次第に北上しつつありましたが、樺太の領有にいよって漁場は急速に広がりつつありました。

 漁業の中心は、道南を離れて道北に移り、従来の漁業で栄えた渡島・檜山地方は、出稼基地となっていきました。それと共に、漁法も急激に変わっていきました。網を張って魚群の群来をまつ沿岸漁業は、進んで沖合に乗り出して漁獲する沖合漁業にその席を譲りました。沿岸漁業権が飽和状態になったからです。
 したがって、漁船は、大型化し、これに動力がつくようになり、無電や冷蔵装置さえも持つようになりました。漁法も改良され、沖合に魚群を発見して捕える底曳網(そこびきあみ)・敷網(しきあみ)・流網(ながしあみ)等が採用され始めました。

 特に注目すべきは、北洋漁業の発達でした。
明治40年日露漁業協約により日本は露領東部海岸の漁業権が認められ、鮭・鱒漁の出稼が多くなりました。世界大戦によって缶詰が盛んに英国に輸出されるようになり、従来の塩蔵を上回るようになりました。
 ところが、戦争終了と共にロシア革命政府は、この方面の漁業権の回復を図り、日本企業を圧迫し始めました。必然的に、従来の海賊的漁業をやめて近代化する必要が生じ、その方面の漁業会社が合同して、大正10年新日魯漁業会社をつくり、函館を基地として鮭・鱒漁業を独占することになり、後には汽船に缶詰装置を積み込み、これを母船として小型機船による流網でとった魚を買い込んで缶詰を製造し、ただちに輸出する母船式鮭鱒漁業を生むに至りました。

 この頃、北千島を中心とした蟹缶詰もこの方式を採用して進出してゆくことになりました。それにいよって、新たにその基地である小樽・函館に大規模な製缶工場が生まれました。これらのために、漁船の避難のため船入澗をもった漁港が必要になり、さらにその中心には漁業基地となる港町が必要となりました。
 従来、こうしたものとして活動した函館・小樽の他に釧路、留萌、稚内などが登場し、従来鰊漁の中心として栄えた江差、寿部、岩内、古平、余市等は停滞をみせ始めました。

 沿岸漁業は次第に漁場を北東に移し、従来の漁獲物は不振となり、中心を鱈・烏賊(いか)等の沖合漁業に、さらに遠洋漁業にと移しつつありました。
 また、沿岸漁獲物も流網、底曳網を用いて、沖合で捕るようになり釣漁は、はえ縄等に代わって大きな漁船で大量の漁獲を上げるようなりました。

註:北海道「新北海道史第一巻概説」195-196頁.
写真:「鰊の沖揚」(記念写真帖 留萌所収)
 同上書196頁掲載写真を撮影掲載いたしております。
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