江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

札幌ー対雁ー江別ー岩見沢道路開通

2008年07月02日 | 歴史・文化
 明治7(1874)年4月、御雇米国教師ベンジャミン・スミス・ライマンは、石狩を遡って精査し、助手モンローと炭を分析しました。その有望なることを見て、最も掘り易い幌内から開始することにしました。
 翌年8(1875)年には具体的な測量に着手し、幌内(ほろない)から幌向太に至る運炭鉄道路線を選定しました。
 こうしてライマンの報告によって開拓使も、幌内炭山開発には非常に熱意を示し、5月には開拓使五等出仕大鳥圭介が幌内を巡検、翌年2月には黒田長官自ら巡視して、幌内ー幌向太間約八里の道路を開設しました。
幌向太、早川村、市来知の三カ所には小屋を建て,翌年9(1877)年8月には新路も竣功、参議伊藤博文や山懸有朋らの巡検もあり、幌向太に至る交通が急速に重要になっていったのもこの頃でした。
 明治9(1877)年札幌から豊平川沿岸を対雁に至り、さらに江別を経て幌向太に達する二間幅の道路の開鑿が始まりました。これは、札幌―対雁(ついしかり)―道路の延長で、対雁アイヌの給与地、江別屯田等は実にこの道路に沿って設けられていたのでした。

 明治12(1879)年4月、対雁・江別間の道路が竣功すると、札幌を距る五里十八町、石狩から六里十四町二十四間の地点に位する対雁に駅逓所が設けられ、伏木某がその取扱人となりました。そして、人足十人が常備されていました。
 こうして、札幌から対雁・江別を経て、幌向・岩見沢(いわみざわ)を通り幌内までの道路が完成しました。
この結果、幌内炭山の採掘も着手し、同年10月煤事務係を札幌に置き、大書記官山内堤雲を掛長とし、御用係松本壮一郎を副長としたのでした。
(参考)当ブログ6月25日(水)「渡辺良洪氏ご講演大盛況!ご報告」
        6月24日(火)「石狩川沿岸」
        6月22日(日)「国内3番目に開通した幌内鉄道ー江別駅の誕生」
        6月18日(水)「わが国における電信の始まり」
        6月12日(木)「村名選定ー江別村」

註)北海道江別市役所「江別市史」・江別屯田兵村遺族会「江別屯田兵村百二十周年の歩み」参照。

写真:ライマン著「北海道地質測量報文」<明治10(1877)年>
   北海道開拓記念館2007年撮影許可を得て、掲載いたしましております。
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